[ 愛媛県 松山市 ]
11月17日(土曜日)。朝から激しい雨。
東京の出版社からの電話待ち。午前11時20分、タクシーで松山の中心街へ出る。
雨でなければ2キロ先のバス停まで歩くつもりでいた。
松山城ロープウェイ街にある、うどん屋「車井戸」でてんぷらうどん(530円)を食べる。
あっさりした汁。天ぷらは揚げたてで、舌を焼いた。
大街道の明屋書店(はるや)に立ち寄る。書店内の放送でポプラ社の新刊のお知らせが
流れていた。ポプラディア大図鑑「WONDA」の紹介だった。
12時30分。愛媛大学、城北キャンパスまで歩く。
「日本昆虫分類学会 第15回大会」に参加。案内に書いていた愛媛ミュージアムの
建物に行くと別の学会の会場しかなかった。正門まで戻って守衛さんに聞いてみると
別の建物であることがわかった。
一般講演が終了し、特別講演が始まるまでの休憩時間で「愛媛大学ミュージアム」の
見学。
大学進学を考えている高校生にとって、このミュージアムはわかりやすい指標になるだろう。
愛媛大学各学部の研究室の研究成果に基づいた展示が綺麗にレイアウトされており、
全部しっかり見学すると1時間半はたっぷり掛かるそうだ。
講演の内容はどれも興味深く拝聴したが、吉富博之先生の
「ビワコブオオアブラムシ(仮称)の日本からの発見」、と
「小笠原列島母島での採集調査」は特に
自分の興味や体験に近いこともあって印象的だった。
私は仕事で1ヶ月間、小笠原に滞在したことがあるが、それは1987年のことで、もう25年
も昔のことだ。母島にも一週間ほど滞在し、鍾乳洞にも潜った。
私の仕事は映画撮影(16ミリ)の助手と写真撮影+生物コーディネーター。
重い三脚機材を担いでの山歩きはかなりキツかった。結局、昆虫撮影はほとんど
できなかった。助手業が忙しいからだ。
母島の無人島へは漁船をチャーターし(当時もチャーター料は一日5万円だった)
カツオドリの撮影をしたが、撮影後、カメラマンが勿体ないから釣りを楽しもうと言い出し、
キハダマグロのはえ縄釣りを1~2時間ばかり行った。
「旦那、引いてるよ!」と言われてキハダマグロを喜んで釣り上げた記憶がある。
しかし、私は短パンにTシャツ姿。みるみるうちに両足太ももが真っ赤に日焼けした。
民宿に戻ってみると足がパンパンに腫れ上がりひどい発熱。
膝を曲げることもできず足の痛みで熟睡することもできなかった。
私の足を見た民宿のおばちゃんにはえらく叱られた。
たしかに貼り紙にも「長ズボン、長袖を着用し、日焼けには注意!!」とあった。
小笠原では過去に日焼けで死者も出ているのだ。
そもそも私は肌白で日焼けにはめっぽう弱い体質である。
間が悪いことに母島の診療所は休日で閉まっていた。しかも明日には父島に
戻らねばならず、その前に乳房山での映画撮影の仕事が残っていた。
宿で休んでいるわけにはいかない。
カメラマンと一緒に乳房山登山に出掛けたが、下山するころには最悪の状況。
足を擦るようにしてゆっくりとしか歩けなくなった。太ももの皮膚はミミズ腫れして
所々はズボンの生地で擦れて破れ、リンパ液が溢れ始めた。
オガサワラシジミもチラリと見たが、すでにカメラを手にする気力も無かった。
まさに「乳房山、死の彷徨!」と心の中で叫んでいた。
カメラマンは飲み水も切れたので、先に下山。じわりじわり、と歩く私を登山口で迎えてくれた。
父島に戻って岸壁に降り立つと送迎の人だかりがあった。
ゆっくりと歩く私の両足が皆の注目を浴びたのは言うまでもない。
痛みがヒドイため、長ズボンが履けないのだ。
すぐさま病院に駆け込み治療を受けた。
と、小笠原での思い出といえば、この日焼け事故のことが強烈に蘇る。
母島の鍾乳洞内はかなり広く、初めての洞穴探検でもあったのでそれも印象に
強く焼きついているが、ともかく三脚、バッテリーを担いでの登山で昆虫をしっかり
観察できなかったのは残念だった。
吉富先生の講演の中で、小笠原の昆虫相が某著に変化し始めたのが1990年で、
その年を境に激減、絶滅が加速したという話があった。
その原因はいろいろあるだろうが、外来生物の影響が大きいことは疑いないだろう。
1987年当時、民宿周辺では普通にグリーンアノールが徘徊していて、
当時は珍しさしか感じず、休憩時間にこのトカゲを追いかけ、
捕食シーンでも撮影できればと躍起になったが、今思えばとんでもないことであった。
小笠原から戻ってからしばらくして、オガサワラゼミがトカゲの捕食で激減している、
という記事を科学雑誌で読んでびっくりした。
またこの当時、私はアリアスアブの生態にのめり込んでいた時期で、
じつは孵化幼虫をトビイロケアりの人工巣で飼育していた。
その成長過程を観察、撮影せねばならなかったが、
そのときに小笠原ロケの仕事が舞い込んできたのだ。私はたいへん迷った。
で、小笠原にも興味が湧いたが自分の抱えているテーマを見放すこともできず一度は
断ったのであるが、助手が他にいない、と説得されてしぶしぶ受けたのであった。
丸々一ヶ月、家を空けている間に、人工巣の中でアリスアブ幼虫は一匹だけだが
成長していた。
今思えば、あの当時は昆虫写真家としての自分を育てているような時期でもあり、
稼ぐ仕事とのバランスでいろいろ悩むことも多かった。
ある意味、必死だったのだろうと思う。
さて、今回の旅は公共交通機関のみで移動。特に撮影の予定を抱えてはいないので
機材は最小限とした。荷物はこんな程度。
右の薄茶色のバッグがHUGGERの小型カメラバッグ。英国製。
造りがしっかりしてコンパクトな機材を収納するにはちょうどいいが、価格はかなり高め。
ノートパソコンはザックの収納スペースに入れてあるので、ザックもカメラバッグも機内
持ち込みとなる。ノートパソコンをカメラバッグに収納できれば、ザックを手荷物預けできるが
そうなるとカメラバッグが大きくなってしまう。カメラバッグはそれゆえ、目的に合わせて
慎重に選びたい。
今回の機材はこれだけ。カメラはOM-EM-5、一台とコンパクトのEX-ZR300のみ。
レンズは標準ズーム、望遠ズーム、マクロ60ミリ、そして魚ロ目8号。
ストロボ用、アームは分解してカメラバッグの底に収納できる。
自作ディフューザー2個は、サイズに大小をつけて二つを重ねてカメラのレンズに
被せる格好で収納。強度を確保したディフューザーは小さくならないが、
重ねることでスペース節約ができる。昔、市販のディフューザーで風船方式のものが
あって使ったことがあるが誰もが想像つくように穴が空いて、すぐにおしゃかになった。
今はペットボトルの底を切り抜いて何個も予備を作っているし、出先で紛失しても材料を
すぐに調達できる。ゴム紐、と若干の工作工具があればいい。ペットボトルに被せる
白布ディフューザーは市販のもので、無ければトレペや代替品を工夫できるが
色温度を考慮する必要がある。
11月17日(土曜日)。朝から激しい雨。
東京の出版社からの電話待ち。午前11時20分、タクシーで松山の中心街へ出る。
雨でなければ2キロ先のバス停まで歩くつもりでいた。
松山城ロープウェイ街にある、うどん屋「車井戸」でてんぷらうどん(530円)を食べる。
あっさりした汁。天ぷらは揚げたてで、舌を焼いた。
大街道の明屋書店(はるや)に立ち寄る。書店内の放送でポプラ社の新刊のお知らせが
流れていた。ポプラディア大図鑑「WONDA」の紹介だった。
12時30分。愛媛大学、城北キャンパスまで歩く。
「日本昆虫分類学会 第15回大会」に参加。案内に書いていた愛媛ミュージアムの
建物に行くと別の学会の会場しかなかった。正門まで戻って守衛さんに聞いてみると
別の建物であることがわかった。
一般講演が終了し、特別講演が始まるまでの休憩時間で「愛媛大学ミュージアム」の
見学。
大学進学を考えている高校生にとって、このミュージアムはわかりやすい指標になるだろう。
愛媛大学各学部の研究室の研究成果に基づいた展示が綺麗にレイアウトされており、
全部しっかり見学すると1時間半はたっぷり掛かるそうだ。
講演の内容はどれも興味深く拝聴したが、吉富博之先生の
「ビワコブオオアブラムシ(仮称)の日本からの発見」、と
「小笠原列島母島での採集調査」は特に
自分の興味や体験に近いこともあって印象的だった。
私は仕事で1ヶ月間、小笠原に滞在したことがあるが、それは1987年のことで、もう25年
も昔のことだ。母島にも一週間ほど滞在し、鍾乳洞にも潜った。
私の仕事は映画撮影(16ミリ)の助手と写真撮影+生物コーディネーター。
重い三脚機材を担いでの山歩きはかなりキツかった。結局、昆虫撮影はほとんど
できなかった。助手業が忙しいからだ。
母島の無人島へは漁船をチャーターし(当時もチャーター料は一日5万円だった)
カツオドリの撮影をしたが、撮影後、カメラマンが勿体ないから釣りを楽しもうと言い出し、
キハダマグロのはえ縄釣りを1~2時間ばかり行った。
「旦那、引いてるよ!」と言われてキハダマグロを喜んで釣り上げた記憶がある。
しかし、私は短パンにTシャツ姿。みるみるうちに両足太ももが真っ赤に日焼けした。
民宿に戻ってみると足がパンパンに腫れ上がりひどい発熱。
膝を曲げることもできず足の痛みで熟睡することもできなかった。
私の足を見た民宿のおばちゃんにはえらく叱られた。
たしかに貼り紙にも「長ズボン、長袖を着用し、日焼けには注意!!」とあった。
小笠原では過去に日焼けで死者も出ているのだ。
そもそも私は肌白で日焼けにはめっぽう弱い体質である。
間が悪いことに母島の診療所は休日で閉まっていた。しかも明日には父島に
戻らねばならず、その前に乳房山での映画撮影の仕事が残っていた。
宿で休んでいるわけにはいかない。
カメラマンと一緒に乳房山登山に出掛けたが、下山するころには最悪の状況。
足を擦るようにしてゆっくりとしか歩けなくなった。太ももの皮膚はミミズ腫れして
所々はズボンの生地で擦れて破れ、リンパ液が溢れ始めた。
オガサワラシジミもチラリと見たが、すでにカメラを手にする気力も無かった。
まさに「乳房山、死の彷徨!」と心の中で叫んでいた。
カメラマンは飲み水も切れたので、先に下山。じわりじわり、と歩く私を登山口で迎えてくれた。
父島に戻って岸壁に降り立つと送迎の人だかりがあった。
ゆっくりと歩く私の両足が皆の注目を浴びたのは言うまでもない。
痛みがヒドイため、長ズボンが履けないのだ。
すぐさま病院に駆け込み治療を受けた。
と、小笠原での思い出といえば、この日焼け事故のことが強烈に蘇る。
母島の鍾乳洞内はかなり広く、初めての洞穴探検でもあったのでそれも印象に
強く焼きついているが、ともかく三脚、バッテリーを担いでの登山で昆虫をしっかり
観察できなかったのは残念だった。
吉富先生の講演の中で、小笠原の昆虫相が某著に変化し始めたのが1990年で、
その年を境に激減、絶滅が加速したという話があった。
その原因はいろいろあるだろうが、外来生物の影響が大きいことは疑いないだろう。
1987年当時、民宿周辺では普通にグリーンアノールが徘徊していて、
当時は珍しさしか感じず、休憩時間にこのトカゲを追いかけ、
捕食シーンでも撮影できればと躍起になったが、今思えばとんでもないことであった。
小笠原から戻ってからしばらくして、オガサワラゼミがトカゲの捕食で激減している、
という記事を科学雑誌で読んでびっくりした。
またこの当時、私はアリアスアブの生態にのめり込んでいた時期で、
じつは孵化幼虫をトビイロケアりの人工巣で飼育していた。
その成長過程を観察、撮影せねばならなかったが、
そのときに小笠原ロケの仕事が舞い込んできたのだ。私はたいへん迷った。
で、小笠原にも興味が湧いたが自分の抱えているテーマを見放すこともできず一度は
断ったのであるが、助手が他にいない、と説得されてしぶしぶ受けたのであった。
丸々一ヶ月、家を空けている間に、人工巣の中でアリスアブ幼虫は一匹だけだが
成長していた。
今思えば、あの当時は昆虫写真家としての自分を育てているような時期でもあり、
稼ぐ仕事とのバランスでいろいろ悩むことも多かった。
ある意味、必死だったのだろうと思う。
さて、今回の旅は公共交通機関のみで移動。特に撮影の予定を抱えてはいないので
機材は最小限とした。荷物はこんな程度。
右の薄茶色のバッグがHUGGERの小型カメラバッグ。英国製。
造りがしっかりしてコンパクトな機材を収納するにはちょうどいいが、価格はかなり高め。
ノートパソコンはザックの収納スペースに入れてあるので、ザックもカメラバッグも機内
持ち込みとなる。ノートパソコンをカメラバッグに収納できれば、ザックを手荷物預けできるが
そうなるとカメラバッグが大きくなってしまう。カメラバッグはそれゆえ、目的に合わせて
慎重に選びたい。
今回の機材はこれだけ。カメラはOM-EM-5、一台とコンパクトのEX-ZR300のみ。
レンズは標準ズーム、望遠ズーム、マクロ60ミリ、そして魚ロ目8号。
ストロボ用、アームは分解してカメラバッグの底に収納できる。
自作ディフューザー2個は、サイズに大小をつけて二つを重ねてカメラのレンズに
被せる格好で収納。強度を確保したディフューザーは小さくならないが、
重ねることでスペース節約ができる。昔、市販のディフューザーで風船方式のものが
あって使ったことがあるが誰もが想像つくように穴が空いて、すぐにおしゃかになった。
今はペットボトルの底を切り抜いて何個も予備を作っているし、出先で紛失しても材料を
すぐに調達できる。ゴム紐、と若干の工作工具があればいい。ペットボトルに被せる
白布ディフューザーは市販のもので、無ければトレペや代替品を工夫できるが
色温度を考慮する必要がある。