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ナガサキアゲハ蛹 2008/02/08
 昨年11月末頃に紹介した、キンカンの幹についたナガサキアゲハの蛹。
この蛹はアオムシコバチの寄生産卵を受けていたので、春になっても羽化することはないだろう、と以前に書いた。この蛹の運命がわかってはいても、迷彩色のナガサキアゲハ越冬蛹には魅了されるものがあり、ときどき様子を眺めていた。

 今日は午後6時頃にキンカンの根元を覗き込んでみたら、蛹の横腹に大きな穴が見えた。表皮がめくれたところからアオムシコバチの幼虫の姿が数匹見えている。おそらく蛹の体内にはこのウジ虫たちがびっしり詰まっているのだろう。

 だがしかし、この穴を開けた犯人はなんだろう?それとも風のいたずらだろうか? 鳥の仕業ということも考えられるだろうか?鳥だとしたら、ウジ虫を残らず食べてしまうのではないか、と思うが、どうだろう。

(写真/E−3  35ミリマクロ+1.4倍テレコン)

 
新開 孝

掛け矢 2008/02/07
 今朝も山仕事をした。1時間で止めるつもりが気付いてみれば3時間経っていた。

 今日の作業は刈ったササの移動だが、あまりにも量が多い。10分も働いていると汗だくになる。少し呼吸を整えようと腰掛けて休んでいるうちに、作業内容を変更してみることを思いついた。
 手で簡単に折り砕けるようなかなり腐朽の進んだササは焼却するしかない。しかしまだ青いササや枯れてはいても固いササなどは枝を落として裁断し、新たに集積場をこしらえてそこへ野積みにすることにした(写真上)。
 集積場は斜面のとくに崩落が生じている場所へ設えることにした。山の斜面にはササの根が相当にはびこっていると思われるが、雨の流水で深くえぐれた場所もあって、前から気にはなっていたのだ。ササ材の集積場がいかほどに堰の役目を果たしてくれるかどうかはよくわからないが、ともかくササの両端は綺麗に切断しておく(写真中)。こうしておけば、狩りバチや花蜂の類いが、ササ筒を子育ての場として利用してくれるだろう。

 集積場の支柱はホテイチクの根際の部分を切り取って打ち込んでみた。ホテイチクの根際の部分は節間が詰まっておりたいへん固く丈夫だ。この支柱を打ち込むにあたっては、これまで1.5キロの鉄製ハンマーを使っていたが、今日は「掛け矢」を買ってみた(写真下/画面左が掛け矢)。

 「掛け矢」という用語は初めて知ったが、要するにでっかい木槌であり、棒杭などを打ち込むときに使う道具だ。今日買った「掛け矢」は樹脂製のもので重さは1キロ。木製だと値段も高くなる。新開 孝

春の兆し 2008/02/05(その3)
 宮崎の冬を過ごすのは今年が初めて。とくに都城盆地の冬は宮崎市内に比べて寒いとは聞いていたが、やはりけっこう気温が下がった日も多い。
 しかし、先週あたりから近所のあぜ道などを眺めていると、すでに春の兆しすら感じるようになった。

 あぜ道のギシギシなどは若い葉っぱが伸びてきて、株全体に活気が戻って来たもの(写真上)や、早い株ではすでに花茎が伸び上がっているものすらある(写真中)。(「薹がたつ」とも言うが、「薹:とう」の漢字は難しい)

 うちの庭のクローバー(シロツメグサ)の葉っぱもこのところ緑色が明るくなってきたのがよくわかる(写真下)。林の落葉樹も梢をたぐり寄せてみれば、冬芽が膨らんできたものも散見できる。

 寒さで言えば、東京に居た頃とさほど変わらないように感じてきたが、しかしやはり、宮崎の冬はいかにも短い。新開 孝

コブハサミムシ 2008/02/05(その2)
 お隣、山之口町にある青井岳の麓へ行ってみた。
 青井岳は標高560メートルの低い山だが、照葉樹林の森が濃く残っている。JR日豊本線の青井岳駅を横目に見上げながら、線路を渡って奥に進むと民家で行き止まりになっていた。庭先にはニホンミツバチ用の手作り飼育箱がいくつも並んでいる。

 ちょうど薪を割っていたおじさんがいたので、青井岳への登山ルートを尋ねてみた。すると営林署の詳しい地図を広げて丁寧にルートを教えていただけた。おじさんは昔、青井岳の奥で山仕事を長年やっていたそうだ。だから周辺のたいへん細かい道の様子なども聞けた。しかも私が昨年の夏にロケハンで入り込んだ道の一つが、そのままズバリ、青井岳へのルートに直結していたので、地図なしでも行けそうだ。 ただし青井岳の頂上は狭く、三角点があるだけらしい。

 渓谷沿いの道で石を起こしてみたら、コブハサミムシのメスが何匹か、卵を抱いていた。春はもうすぐそこまで来ているようだ。新開 孝

ヤママユの繭の運命 2008/02/05(その1)
 今の時期に雑木林で見つかるヤママユの繭の姿には大方、二通りあって、一つは大きな穴がぽっかりと開いたもの。そしてもう一つは写真のように完全な姿を保った繭だ。
 繭上部に大きな穴が開いた繭は、夏の頃に成虫が羽化して繭の外へと旅立っていったことの証である。その穴は徳利の口のようにわずかにめくれており、大きな体のヤママユ成虫がゆっくりと時間をかけて抜け出した様子が目に浮かぶ。しかし繭の概形のシルエットがそのままで、大きな穴が繭の横腹あたりに開いている場合は、繭がなんらかの災難に襲われたことを物語っている。 

 私が高校生の頃に初めてヤママユの繭を見たのは、まさに今日の写真と同じ状況だった。当時、見つけた繭はもっと緑色が鮮やかだったと思う。そのころはカメラを持ってなかったので、スケッチだけが残っている。その繭は宝物のように感じて大事にしまっておいたのだが、春になってからでっかい寄生蜂が一匹出て来た。それはコンボウアメバチというとてもスリムな寄生蜂だった。

 さて、写真の繭はおそらくコンボウアメバチの寄生を受けたのだろうと思ってうちに持ち帰ってみた。ところが繭の中の蛹を調べてみると、じつはコンボウアメバチの寄生ではなかったことが判った。蛹のなかでは成虫の体がかなり出来上がっていく中途で息が絶えていた。また繭の外壁には数カ所に直径1ミリほどの小さな穴が開いており、そこから何らかが侵入したのか、あるいは脱出したのか?仔細に見てみると何らかの天敵にやられたことは薄々、納得がいくのだが、どうもすっきりとしない。

新開 孝

クヌギとキマエアオシャク幼虫 2008/02/04
 三股町内のあるクヌギ林でキマエアオシャク幼虫を見つけた。
 九州のクヌギ林のほとんどはシイタケのほだ木用に植えられており、背丈も低くヒョロヒョロと胴回りも細い木がほとんどだ。
 こうした林では、夏場の樹液酒場のにぎわいを期待することは難しいが、そのかわりに低い梢の観察がし易く、食葉性昆虫を探すときには好都合である。したがって今頃は冬芽近くに潜んでいる昆虫探しについてはたいへん効率が良い。
 クヌギはでっかくなり過ぎると、手の届く様な高さに枝が無くなり、冬芽の観察などは不可能になってしまう。

 さて、このキマエアオシャク幼虫はいかにも地味で、体長は3〜4ミリしかないから、余程意識して探さない限り、多くの熱心な自然観察者にとっても無縁の昆虫となりかねない。

 キマエアオシャク幼虫は写真のような姿で冬を過ごし、春になって芽生えが始まると脱皮してガラリと姿を変える。その様子は、拙著『どこにいるの?シャクトリムシ』(ポプラ社)の大扉と3頁目に写真が掲載されているので、興味がある方はご覧いただきたい。

 (写真/Eー3  35ミリマクロ+1.4倍テレコン/ストロボFL-36R使用)
 新開 孝

今朝の霧島山 2008/02/03(その2)
 今日は全国的に冷え込み、東京でも雪が降っている様子をテレビで見た。
 こちら南九州も寒い一日だったが、午前中は少し晴れ間もあった。その晴れ間のうちに、上の子は学校の上履きを外で洗っていた。しかし、風が強く雲の流れもたいへん速い。午後になってからはにわか曇りになったかと思えば、パラパラと小雨が落ちたりもして、不安定な一日だった。

 朝早く霧島山を眺めてみれば、韓国岳の頂上付近にのみ、わずかに積雪があったようだ。

 (写真/E−3 50-200ミリズーム)新開 孝

コガネグモの子グモ 2008/02/03(その1)
 2年前、初めてうちの敷地を訪れたとき、ここにはコガネグモが普通に生息していて、そのことを知った時点で、私は今住んでいる物件にとても好感を抱いたのであった。コガネグモが繁栄しているということは、それはつまり日本の人里の自然環境としては、まだまだ良好な状況にあるとの確信を得たようなものと感じたからである。

 さて、そのコガネグモたちがいくつかの卵のうを残して姿を消したのは昨年の晩夏のころ。そして卵のうはすべて無事にふ化したことも見届けた。一つの卵のう内には1500個あまりの卵が入っているそうだから、ざっと計算してもうちの庭で誕生した子グモの数は、1万匹近くに達するはずだ。
 しかし、その子グモたちもいつの間にかに姿を消してしまい、私の仕事部屋近くの外壁に、なんと今ではわずかに2匹の子グモを確認できるのみとなってしまった。

 このコガネグモの2匹の子グモは、ただただじっとしているだけだ。秋の頃には小さな網に掛かった獲物を食べている様子を撮影しているが、今はとにかく忍耐の日々のようである。
 彼らが無事に春を迎え、そして成長できるのかどうか、たいへん興味深く観察しているところである。

 今日は都城市のリサイクルセンターに行ってみた。とても広大な土地にとんでもなくお金を掛けたとしか思えない立派なでっかい施設に驚いた。駐車場も広い!広過ぎる!
 さて、子供部屋の椅子を物色するのが目的だったが、なんと手頃な学習椅子がたったの100円!!であった。
 私の撮影スタジオで使い易い高さの可動椅子もあって、これが200円!!即購入。領収書もなにもなかったけれど、ちょっといい加減かとも思う。

 リサイクルセンターには膨大な廃棄物、粗大ゴミが持ち込まれる。これらの中にはそのままでも充分に使用できるものから、少し手を入れれば再使用可能なものまで様々な品物であふれているようだ。再生工場の様子も少し見学できた。
 いろいろと工夫できる余地が無限に潜在しているように思われ、この再生工場をもっと活性化すれば、ここから安くて面白い製品が産まれてくるようにように思われた。そのためには民間のしかも若い世代の活力を導入できれば良いかもしれない。
新開 孝

今朝の霧島山と野焼き 2008/02/01(その2)
 すっきりした空に霧島山の綺麗なシルエットが浮かんだ(写真上)。

 霧島山はうちの庭から眺めることができる定点の風景だが、いづれはまったく違う方角からも霧島山を眺めてみたいと思う。360度の角度からぐるりと眺めてみれば、霧島山の偉大な山容も明らかになってくるのだろう。

 さて先日、うちの地区や隣接する町で大々的に野焼き作業が行われた。しかし、雨が続いたせいだろう野焼き作業はあまり盛大にとはいかず、期待していたほど火炎は上がらず、写真にもならなかった。私はササの処分の焼却作業をしながら、野焼き作業を眺めていたのだが、ついに出向いてまで撮影するチャンスはなかった。

 今日はうちの近所の畑で野焼きが行なわれた(写真中)。ここの畑のノリ面は、昨年にタテハモドキやキタテハなどがねぐらにしていたところで、何度も紹介した場所でもある。見ていると草むらに潜り込んで越冬していたキチョウが数匹、飛び出していた。けっこう乾燥した場所で越冬しているのだなあ、と思ったが、この地域のキチョウの越冬の仕方は本州などの寒い地方と比べて眠りが浅いのかもしれない、とも考えてみたりした。

 野焼きというのもなかなか豪快にはいかないようだ。仔細に見てみると燃え残りがたくさんあった(写真下)。
 とは言え、一昨年だったか、阿蘇山での山火事を思い出すと、火を侮れない。あのときの山火事は、野宿していた人がインスタントラーメンを食べようと、ストーブに火をつけてたのがひっくり返り、それがあれよあれよというまに、大惨事になってしまったのだ。



(写真上/OLYMPUS E−3  50-200ミリズーム)
(写真中、下/リコー Caplio GX100)

 新開 孝

庭の昆虫たち 2008/02/01(その1)
 家の台所に近い外壁にスジグロシロチョウの蛹がついていた(写真上)。

 少し目線を下げてみれば、パセリを植えた鉢にはモンシロチョウの蛹が着いていた(写真中)。

 モンシロチョウとスジグロシロチョウの蛹の違いは慣れてくれば、すぐにわかるようになる。両者はおおまかに見ればすみわけているのだが、かなり生活圏がダブってもおり、そういう場所は人の生活圏に多い。
 人が造り出す環境はそれだけ複雑になっているわけで、それはそれで自然の多様性に知らず知らずに貢献していることもあるのだ。

 アブラナの花にはセイヨウミツバチが3匹が来ていた。日射しがとても暖かい。
 私としてはニホンミツバチが姿を見せてくれないことに、釈然としないものを感じ始めてきているところだ。どうしたのだろうか?

 それにしても、昆虫のその可愛い姿と、そしてその素晴らしい運動能力には、毎晩、乾杯しても足りないくらいだと、そう感じるのである。
 新開 孝

MRT宮崎放送 2008/01/31(その1)
 今朝は「MRT宮崎放送」ラジオの生中継、SCOOPY号が取材に訪れてくれた。

 うちは車のナビゲーションなどでは辿り着けないような、微妙な番地のようで初めて来てくれる大概の方は、うちを行き過ぎて長田峡方面へと辿り着く。
 けっこう目立つ目印があるのだけれど、うちに入る四つ角は地形上、丘の頂上になっているので見落とし易いせいもあるだろう。

 さて、今朝はMRT宮崎放送の若い女性お二人が見えた。東京から引っ越して来た昆虫写真家とは、なんぞや?ということだった。しかし、インタビューの時間はわずか4分程度。私は一言二言、お答えしただけだった。ともかく私のスタジオは寒い。体が震えるほどだから長丁場のインタビューなど無理だったとも言える。

 まあ、たまにはこういう華やいだ雰囲気も良いものと思う。
 写真の私は目をつぶっているが、意図したものではない。

(写真/リコー Caplio GX100)新開 孝

犬顔のオオテントウ 2008/01/31(その2)
 今日はMRT宮崎放送ラジオの取材のあと、すぐに日南市へと赴いた。
このところ続いたデスクワークで鈍った体をほぐすためにも、久しぶりにフィールドを歩いてみた。

 前々から気になっていた日南市のある森を歩いてみたかったのだ。3時間ほど巡っての帰り道、マテバシイの梢でオオテントウの姿を見つけた。
 体色がずいぶん褪せて見えるので、もしや死骸かなと思ったのだが、しっかりと枝にしがみついていることがわかった。どうやらカイガラムシかなにかを食べていたようなのだ。その姿は正面から見るとまるで犬の顔そっくり(写真上)。意外な発見だ。

 昨年の11月、この森の近くではオオテントウの残骸の一部(エリトラ)を拾ったことがある。それで日南市の海岸近くの森ではきっとオオテントウに会えるだろうとは期待していたのだ。しかし冬のあいだは何処かに潜んでしまって、見つけるのは無理だろうと半分は諦めていた。

 ところがどうして、オオテントウは冬でも活動しているようなのだ。少なくともナミテントウなどのように集団越冬しないのかもしれない。もっともオオテントウについての生態的な記載をこれまでまったく見たことが無い。

 オオテントウはうちに持ち帰り、ナナホシテントウと並べてみた(写真下)。いかにでっかいテントウムシかおわかりいただけると思う。

(写真/Eー3  35ミリマクロ+1.4倍テレコン)新開 孝

キボシトックリバチの泥巣 2008/01/30
 日本のトックリバチ(Eumenes)属は、5種類とされている。
 ミカドトックリバチ、ムモントックリバチ、キアシトックリバチ、スズバチ、そしてキボシトックリバチである。

 トックリバチ5種が幼虫のためにつくる泥巣は、いづれも徳利のような壷であるため、たいへん目立つ。しかし、5種類のトックリバチ属がつくる泥巣の形は種類によって特徴があって、したがって泥巣を見ただけで5種のうちのどれであるかは、だいたい検討がつく。

 さて今日、近くの公民館の壁で見つけた泥巣は、キボシトックリバチのものであろうと思う。このように壷を複数個くっつけるのはスズバチと本種キボシトックリバチだけだが、スズバチの場合は壷の全ては泥で一つの球に上塗りされるのでそれでないことが判る。※壷単体の形状から、スズバチかもしれない。ここでは断定を避けたい。2015年3月、訂正)

 写真では3個の大きな穴が空いており、画面左端の徳利の襟の部分が残っている。これはどういう理由かはわからないが時間があれば調べてみたいものだ。

 我が家の家壁の西側には一つだけ、でっかいスズバチの泥巣が着いている。この泥巣を作る様子は秋に撮影したのだが、そのスズバチのメスが吸水する場所が、我が家の庭の手水であったことを思い出す。しかし、結局、泥の材料の土をどこで集めてくるのかは見届けることができなかった。

(写真/リコー Caplio GX100)新開 孝

初めての昆虫図鑑 2008/01/29
 昨日、今日と朝から雨。一昨日のうちに野外作業を片付けておいたのは正解だった。
 
 今日の写真は、私が初めて手にした昆虫図鑑を選んでみた。
 保育社の『標準原色図鑑全集1/蝶・蛾』で、著者は白水隆、黒子浩、両博士。
 初版は1966年(昭和41年)。
 
 この図鑑は購入当時、定価1200円。そのころ私は中学1年生だったが(1972年ころ)、1000円を越す買い物というのは、ちょっと特別であり、たしか誕生プレゼントで母親に買ってもらったと思う。
 この図鑑は種類ごとに和名や学名の解説が随所にあって、さらに卵や幼虫、食草などの線画も少しではあるが添えられており、初心者にとってはまさに知識の宝庫のように感じられたものだ。

 この図鑑を手にしてから手製の捕虫網と三角缶を持って初めて採集したチョウが、ベニシジミだった。図鑑で調べてベニシジミを知って、こんなオレンジ色のチョウが身近な場所にいるなんて!と驚愕したことも懐かしい想い出だ。
 中学1年生でようやくチョウの採集に目覚めたのであるから、私の虫屋歴というのは出だしが遅かったといえる。
 ある日、中学の同級生で、私がチョウに興味を持っていると聞いて、次の日に紙製の標本箱と展翅板を持ってきてくれたことがあった。標本箱の中にはまだ私が見たこともなかったイシガケチョウやスミナガシ、オオムラサキ、アサギマダラなどが並んでおり、その憧れのチョウたちを目の前にしてクラクラしたものだ。
 しかもその同級生は、それら全部を私にくれると言うのだ。彼は、チョウの採集には飽きたと言う。これには驚いた。

 私はチョウというまだまったく未知の昆虫世界の入り口にあって、その宇宙にも等しい魅惑の境地に、これからようやく足を踏み入れようとしていた頃だ。どんなことでもチョウに関する事柄であれば、たいへん敏感になり、チョウを意識するだけで幸せな気分に浸れ、希望にも満ちていた。ところが、同い年の同級生は、「飽きた」の一言で私から見れば宝以上の標本や展翅板をあっさりと手放そうというのだ。
 さて当時の私は、この素晴らしいプレゼントを喜んで受けたのであろうか?

 答えはNO!私はたんにひねくれた性格だったのだろうか。そういう面もあるかもしれないが、そのときの私は、
 「ぼくのチョウに抱きつつある夢をぶち壊さないでくれ!」と、
今となって振り返ればそう心の中で叫んでいたように思う。
 チョウは自分の手で採集しなければ意味がなく、その採集行為は自分にとってはたいへん神聖な行ないだと捉えていたように思う。そのような純情とも言える思い入れは、その後けっこう長く尾を引いた。
 大学に入ってすぐ、先輩と愛媛県の面河渓を昆虫採集しながら歩いたことがあった。そのとき私の前を歩いていた先輩がすかさず、ツマジロウラジャノメをネットインしたのである。私にとってツマジロウラジャノメはまだ目撃も採集もしたことがなく、たいへん憧れていたチョウの一種だった。
 羨ましい気持ちでいると、「あ、新開、まだ採ってへんかったなあ。これやるで。とっとき。」とネットを差し出してくれた。

 しかし、ここでも私は受け取りを拒否した。憧れのチョウは自分の網で採りたかったのだ。「おかしなヤッチャな。いらへんのか?」の先輩の言葉に、
 「やっぱし自分の手で採らんと、、、。」と答えたように思う。
 ちなみに当時の愛媛大学の所属学科には私のような松山の地元人間は数少なく、ほとんどの学生は大阪、京都、兵庫など近畿圏から入学した者で占められており、私自身の喋り言葉も大阪弁、京都弁などにたいへん影響を受けていた。

 中学時代は結局それほどチョウの採集に没頭することもなく、なんとなく憧れ続けていたばかりで、本格的にのめり込んだのは高校に進学してからだった。大学進学校のなかにあって、これが勉学と思い切りかち合い、私の成績はみるみると下がり続け、試験の成績は常に学内順位では後ろから数えたほうが早いところまで落ちた。
 チョウの採集はしても、私の場合どこかの著名な採集地などへはあまり出掛けなかった。まあ、お金もなかったからせいぜい自転車で漕いでいける範囲。そういう近場では採集できるチョウの種類もしれている。それに、私はコレクションの数を増やすことに早い段階で意欲を失っていった。採集する標本が増えれば、展翅板もそして高価な標本箱も数限りなく揃えていかなければならい。そのようなこづかいを捻出するすべも無く、また標本箱の置き場所も無い。
 そういった経済的な理由だけでもなく、私の興味がチョウの生活を知ることへとシフトしていったことも大きい。それは珍しいチョウでも憧れのチョウでもなく、その辺の近所に生息しているチョウで良かったのであった。つまりすでに生態が解明されているような普通種であっても、生態観察を行なうことが私にとってはたいへん新鮮な喜びになっていったのであった。

 あるチョウがどんな植物に卵を産み、幼虫はどうやって育つのか。卵の形は?幼虫の姿は?蛹になるのはどんな場所か。そういうチョウの一生がどんな場所でどのように行なわれているのか、種類ごとに丹念に自分の目でしっかりと観察体験をするには、いくら時間があっても足りないくらい、楽しい日々だった。

 楽しい日々が続いたせいだろうか、何やら忘れ去ってしまったことがあった。
 そう、大学受験に落ちたのであった。私は二つ以上のことを同時進行できない質のようで、遮二無二、チョウを追いかけ続けたツケは大きかった。

 (訂正)

 先日の1月27日の記事で、私が田中一村の絵に出会ったのが高校の美術の教科書のなかであった、と書いたがこれは私の記憶違い。
 田中一村の作品が広く世の中に公表され始めたのは、一村の死後のことで、一村の没年は昭和52年(1977年)。私が高校生だった1975年頃に教科書のような誌面に一村の作品が載るということはあり得なかった。
 今回、知人からその指摘を受けたので、さっそく1/27の記事は訂正しました。

 しかし、となると私は一体何処で、一村の絵を初めて目にしたのだろうか。気になって仕方が無いので、少し調べてみたい。

新開 孝
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