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MRT宮崎放送 2008/01/31(その1)
 今朝は「MRT宮崎放送」ラジオの生中継、SCOOPY号が取材に訪れてくれた。

 うちは車のナビゲーションなどでは辿り着けないような、微妙な番地のようで初めて来てくれる大概の方は、うちを行き過ぎて長田峡方面へと辿り着く。
 けっこう目立つ目印があるのだけれど、うちに入る四つ角は地形上、丘の頂上になっているので見落とし易いせいもあるだろう。

 さて、今朝はMRT宮崎放送の若い女性お二人が見えた。東京から引っ越して来た昆虫写真家とは、なんぞや?ということだった。しかし、インタビューの時間はわずか4分程度。私は一言二言、お答えしただけだった。ともかく私のスタジオは寒い。体が震えるほどだから長丁場のインタビューなど無理だったとも言える。

 まあ、たまにはこういう華やいだ雰囲気も良いものと思う。
 写真の私は目をつぶっているが、意図したものではない。

(写真/リコー Caplio GX100)新開 孝

犬顔のオオテントウ 2008/01/31(その2)
 今日はMRT宮崎放送ラジオの取材のあと、すぐに日南市へと赴いた。
このところ続いたデスクワークで鈍った体をほぐすためにも、久しぶりにフィールドを歩いてみた。

 前々から気になっていた日南市のある森を歩いてみたかったのだ。3時間ほど巡っての帰り道、マテバシイの梢でオオテントウの姿を見つけた。
 体色がずいぶん褪せて見えるので、もしや死骸かなと思ったのだが、しっかりと枝にしがみついていることがわかった。どうやらカイガラムシかなにかを食べていたようなのだ。その姿は正面から見るとまるで犬の顔そっくり(写真上)。意外な発見だ。

 昨年の11月、この森の近くではオオテントウの残骸の一部(エリトラ)を拾ったことがある。それで日南市の海岸近くの森ではきっとオオテントウに会えるだろうとは期待していたのだ。しかし冬のあいだは何処かに潜んでしまって、見つけるのは無理だろうと半分は諦めていた。

 ところがどうして、オオテントウは冬でも活動しているようなのだ。少なくともナミテントウなどのように集団越冬しないのかもしれない。もっともオオテントウについての生態的な記載をこれまでまったく見たことが無い。

 オオテントウはうちに持ち帰り、ナナホシテントウと並べてみた(写真下)。いかにでっかいテントウムシかおわかりいただけると思う。

(写真/Eー3  35ミリマクロ+1.4倍テレコン)新開 孝

キボシトックリバチの泥巣 2008/01/30
 日本のトックリバチ(Eumenes)属は、5種類とされている。
 ミカドトックリバチ、ムモントックリバチ、キアシトックリバチ、スズバチ、そしてキボシトックリバチである。

 トックリバチ5種が幼虫のためにつくる泥巣は、いづれも徳利のような壷であるため、たいへん目立つ。しかし、5種類のトックリバチ属がつくる泥巣の形は種類によって特徴があって、したがって泥巣を見ただけで5種のうちのどれであるかは、だいたい検討がつく。

 さて今日、近くの公民館の壁で見つけた泥巣は、キボシトックリバチのものであろうと思う。このように壷を複数個くっつけるのはスズバチと本種キボシトックリバチだけだが、スズバチの場合は壷の全ては泥で一つの球に上塗りされるのでそれでないことが判る。※壷単体の形状から、スズバチかもしれない。ここでは断定を避けたい。2015年3月、訂正)

 写真では3個の大きな穴が空いており、画面左端の徳利の襟の部分が残っている。これはどういう理由かはわからないが時間があれば調べてみたいものだ。

 我が家の家壁の西側には一つだけ、でっかいスズバチの泥巣が着いている。この泥巣を作る様子は秋に撮影したのだが、そのスズバチのメスが吸水する場所が、我が家の庭の手水であったことを思い出す。しかし、結局、泥の材料の土をどこで集めてくるのかは見届けることができなかった。

(写真/リコー Caplio GX100)新開 孝

初めての昆虫図鑑 2008/01/29
 昨日、今日と朝から雨。一昨日のうちに野外作業を片付けておいたのは正解だった。
 
 今日の写真は、私が初めて手にした昆虫図鑑を選んでみた。
 保育社の『標準原色図鑑全集1/蝶・蛾』で、著者は白水隆、黒子浩、両博士。
 初版は1966年(昭和41年)。
 
 この図鑑は購入当時、定価1200円。そのころ私は中学1年生だったが(1972年ころ)、1000円を越す買い物というのは、ちょっと特別であり、たしか誕生プレゼントで母親に買ってもらったと思う。
 この図鑑は種類ごとに和名や学名の解説が随所にあって、さらに卵や幼虫、食草などの線画も少しではあるが添えられており、初心者にとってはまさに知識の宝庫のように感じられたものだ。

 この図鑑を手にしてから手製の捕虫網と三角缶を持って初めて採集したチョウが、ベニシジミだった。図鑑で調べてベニシジミを知って、こんなオレンジ色のチョウが身近な場所にいるなんて!と驚愕したことも懐かしい想い出だ。
 中学1年生でようやくチョウの採集に目覚めたのであるから、私の虫屋歴というのは出だしが遅かったといえる。
 ある日、中学の同級生で、私がチョウに興味を持っていると聞いて、次の日に紙製の標本箱と展翅板を持ってきてくれたことがあった。標本箱の中にはまだ私が見たこともなかったイシガケチョウやスミナガシ、オオムラサキ、アサギマダラなどが並んでおり、その憧れのチョウたちを目の前にしてクラクラしたものだ。
 しかもその同級生は、それら全部を私にくれると言うのだ。彼は、チョウの採集には飽きたと言う。これには驚いた。

 私はチョウというまだまったく未知の昆虫世界の入り口にあって、その宇宙にも等しい魅惑の境地に、これからようやく足を踏み入れようとしていた頃だ。どんなことでもチョウに関する事柄であれば、たいへん敏感になり、チョウを意識するだけで幸せな気分に浸れ、希望にも満ちていた。ところが、同い年の同級生は、「飽きた」の一言で私から見れば宝以上の標本や展翅板をあっさりと手放そうというのだ。
 さて当時の私は、この素晴らしいプレゼントを喜んで受けたのであろうか?

 答えはNO!私はたんにひねくれた性格だったのだろうか。そういう面もあるかもしれないが、そのときの私は、
 「ぼくのチョウに抱きつつある夢をぶち壊さないでくれ!」と、
今となって振り返ればそう心の中で叫んでいたように思う。
 チョウは自分の手で採集しなければ意味がなく、その採集行為は自分にとってはたいへん神聖な行ないだと捉えていたように思う。そのような純情とも言える思い入れは、その後けっこう長く尾を引いた。
 大学に入ってすぐ、先輩と愛媛県の面河渓を昆虫採集しながら歩いたことがあった。そのとき私の前を歩いていた先輩がすかさず、ツマジロウラジャノメをネットインしたのである。私にとってツマジロウラジャノメはまだ目撃も採集もしたことがなく、たいへん憧れていたチョウの一種だった。
 羨ましい気持ちでいると、「あ、新開、まだ採ってへんかったなあ。これやるで。とっとき。」とネットを差し出してくれた。

 しかし、ここでも私は受け取りを拒否した。憧れのチョウは自分の網で採りたかったのだ。「おかしなヤッチャな。いらへんのか?」の先輩の言葉に、
 「やっぱし自分の手で採らんと、、、。」と答えたように思う。
 ちなみに当時の愛媛大学の所属学科には私のような松山の地元人間は数少なく、ほとんどの学生は大阪、京都、兵庫など近畿圏から入学した者で占められており、私自身の喋り言葉も大阪弁、京都弁などにたいへん影響を受けていた。

 中学時代は結局それほどチョウの採集に没頭することもなく、なんとなく憧れ続けていたばかりで、本格的にのめり込んだのは高校に進学してからだった。大学進学校のなかにあって、これが勉学と思い切りかち合い、私の成績はみるみると下がり続け、試験の成績は常に学内順位では後ろから数えたほうが早いところまで落ちた。
 チョウの採集はしても、私の場合どこかの著名な採集地などへはあまり出掛けなかった。まあ、お金もなかったからせいぜい自転車で漕いでいける範囲。そういう近場では採集できるチョウの種類もしれている。それに、私はコレクションの数を増やすことに早い段階で意欲を失っていった。採集する標本が増えれば、展翅板もそして高価な標本箱も数限りなく揃えていかなければならい。そのようなこづかいを捻出するすべも無く、また標本箱の置き場所も無い。
 そういった経済的な理由だけでもなく、私の興味がチョウの生活を知ることへとシフトしていったことも大きい。それは珍しいチョウでも憧れのチョウでもなく、その辺の近所に生息しているチョウで良かったのであった。つまりすでに生態が解明されているような普通種であっても、生態観察を行なうことが私にとってはたいへん新鮮な喜びになっていったのであった。

 あるチョウがどんな植物に卵を産み、幼虫はどうやって育つのか。卵の形は?幼虫の姿は?蛹になるのはどんな場所か。そういうチョウの一生がどんな場所でどのように行なわれているのか、種類ごとに丹念に自分の目でしっかりと観察体験をするには、いくら時間があっても足りないくらい、楽しい日々だった。

 楽しい日々が続いたせいだろうか、何やら忘れ去ってしまったことがあった。
 そう、大学受験に落ちたのであった。私は二つ以上のことを同時進行できない質のようで、遮二無二、チョウを追いかけ続けたツケは大きかった。

 (訂正)

 先日の1月27日の記事で、私が田中一村の絵に出会ったのが高校の美術の教科書のなかであった、と書いたがこれは私の記憶違い。
 田中一村の作品が広く世の中に公表され始めたのは、一村の死後のことで、一村の没年は昭和52年(1977年)。私が高校生だった1975年頃に教科書のような誌面に一村の作品が載るということはあり得なかった。
 今回、知人からその指摘を受けたので、さっそく1/27の記事は訂正しました。

 しかし、となると私は一体何処で、一村の絵を初めて目にしたのだろうか。気になって仕方が無いので、少し調べてみたい。

新開 孝

シンジュサンの繭 2008/01/27
 今朝もササの解体作業をしていたら、シンジュサンの繭が二つついていた。繭は葉っぱを縦に巻いて舟形にしてから作られるが、この繭の場合、葉っぱが完全にはずれて裸の状態になっていた(写真上)。おそらくササの葉にくるまれていたものと思う。

 繭を切り開いてみれば、中にいるはずの蛹の姿はなく、干涸びて小さく萎縮した幼虫の死骸があった(写真中)。シンジュサンは繭の中で蛹越冬なのだが、この幼虫は繭を完成したものの、蛹へと成長できず、なぜか死んでしまったのだ。

 ちなみに、正月に帰省した松山で撮影したシンジュサンの繭の写真がこちら(写真下)。シンジュサンの繭はこのように葉っぱにくるまれており、うっかりすると枯れ葉に紛らわしい。松山の実家のそばのクロガネモチの木では毎年、シンジュサンが発生しており、冬に帰省するたびに繭を見ることが出来る。

 シンジュサンとは漢字表記では「神樹蚕」であり、真珠とは関係ない。
神樹(シンジュ)の名は、ニワウルシという木の別名であり、シンジュサンの幼虫はこのニワウルシの葉を食べて育つ。ちょっとややこしいが、「ニワウルシサン」とはならず「シンジュサン」となった経緯はわからない。

 シンジュサンの幼虫はニワウルシ以外にも、キハダ、ニガキ、ゴンズイ、クスノキ、シロダモ、クロガネモチなどを食樹とする。
 ではうちの林では何の木で育ったのだろうかと見渡してみるが、すぐには検討がつかない。ニガキあたりが怪しいけれど、前々から気になっているその木がニガキかどうかは確認できていない。

 以前、愛媛県松山市の県立美術館で開催された『田中一村/原画展』に赴いたことがある。ちょうど松山に帰省しているときで、人から誘われない限り絵画展などに足を運ぶことのない私が、一人で美術館に行ったのだからかなり珍しい出来事であった。普段はあまり美術絵画に関心を寄せないのに、田中一村の絵にはなぜか惹かれるものがあった。

 昭和40年代に描かれたとされる「奄美の杜」という一連の作品には、イシガケチョウやツマグロヒョウモン、オオトモエ、ノボタンなどと一緒にシンジュサンが描かれた絵もあって、シンジュサンを見るたびに一村の絵を思い出す。
 やはり一村の原画を松山の美術館で見た記憶があまりにも強烈であったせいもあるだろう、松山から東京に戻って、すぐに読んだのが『アダンの画帖 田中一村伝』南日本新聞社編(小学館)であった。
 この本を久しぶりに開いてみれば、裏表紙に「平成8年2月28日購入、29日完読ス」などと、わざわざ自分の書き込みがあったのには驚いた。
 
 本を読んで涙するということは、これもおそらくほとんど私には経験が少ないのだが、『アダンの画帖 田中一村伝』の後半あたりでは、ボロボロと涙しながら読んだことも今では懐かしい想い出となった。 

(写真/OLYMPUS E-3  50ミリマクロ)新開 孝

危機一髪!宙吊りの蛹 2008/01/26(その2)
 昨日は地面に落ちていたナガサキアゲハの蛹を紹介したが、今日はモンキアゲハの蛹を見つけた。

 見つけた、というよりこれも拾った、という方が正しいかもしれない。うちの林で下刈りしたササを片付けていて、拾い上げたササの枝にこの蛹は着いていたからだ。ササを刈ったときの衝撃で、体を支えていた帯糸が切れ宙吊りになってしまったようだ(写真上)。今朝は、このササを今にも火の中へ投じようとした間際で、蛹に気付いた。

 昨日のナガサキアゲハ蛹と比較するためにモンキアゲハの蛹も黒バックで撮影してみた(写真中、下)。
 前にも書いたが、モンキアゲハ蛹の特徴は側面から見たときにはっきりする。体の背中側への反り返りがほぼ直角になっていることだ。

 うちの林にはカラスザンショウの大木や実生の小木などがたくさん植わっているので、モンキアゲハの幼虫はそこで育ったのは間違いないだろう。蛹になる場所をもとめて食樹から離れ、彷徨いながらササの枝に落ち着いたわけだ。

 さて、これまでの『ある記』で、たびたび登場してきたナガサキアゲハとモンキアゲハの蛹。こうして越冬蛹が比較的よく見つかるのも、うちの周辺に生息するアゲハ類ではこの2種が圧倒的に多いからである。他のアゲハ類としてはクロアゲハ、カラスアゲハ、ナミアゲハ(アゲハ)なども見られるが、その数においては先の2種にはとても及ばない。

 ナガサキアゲハの食樹はほとんどが栽培されているミカン類であり、一方モンキアゲハはその多くがカラスザンショウを好む。モンキアゲハの幼虫もキンカンで見つかったりするが、これまでの越冬蛹の発見場所を見た限りでも、ナガサキアゲハは栽培ミカン、モンキアゲハは自然木のカラスザンショウと、はっきりした好みの違いがわかる。
 
(写真上/OLYMPUS E-3 50ミリマクロ+2倍テレコン)
(写真中、下/OLYMPUS E-3 35ミリマクロ+1.4倍テレコン)新開 孝

ニホンホホビロコメツキモドキ、ふたたび 2008/01/26(その1)
 寒い日が続く。宮崎県南部にあっても冬は冬。
とりわけ我が家の建物は、夏は涼しいけれど、冬の防寒についての考慮がほとんど為されていない。暖房機器を使うにしても、いかにも暖房効率が悪過ぎる。窓がやたらと大きいのだ。外の眺望は抜群に良いのだが、冬は寒い。
 薪ストーブの導入も本気で考えたりしてみたが、まずは建築構造の根本から見直す必要があるだろうと思っている。

 さてここ数日の朝は、時間を限定しての野外作業をまず行なっている。野外作業とは、もう何度も繰り返し書いてきたことだが、林の下刈りとそのササの処分。ともかく朝は寒くて室内にジッとしておれない。まずは体の暖気運転から始めるわけだ。

 刈ったササの処分については、市の粗大ゴミ処理場に問い合わせてみたら、原則としては受け入れはできない、ということだった。2トントラックで一気になんて、とんでもない話だった。チビチビと軽トラに積める程度なら、なんとか受け入れてくれないでも無いような話だが、その程度のことならうちでコツコツと解体+焼却する作業とたいして違いは無いように感じる。それにうちには軽トラが無い。

 今日もまずは火を起こすことから始めた。燃やすササはすでに枯れてカラカラになった材だけを選ぶ。これなら足で踏んでポキポキ裁断できるから、薪が次々と供給できるというわけだ。ササの枯れ具合も目で見て判別できるから、簡単に折れる材かどうかの判断もすぐつく。これはちょっとまだ枯れ具合が浅いぞ、という材はベキッと鈍い音がして、割れて折れ曲がるだけ。ササの表面につやがあって、まだ水分が多く残っているのだ。こういう材は何度も折り曲げしないことには、切断できない。ナタが必要なこともある。
 ただし、こういう材こそは要注意。中にニホンホホビロコメツキモドキやその他の昆虫が入っている可能性が大きいからだ。しかし、昆虫がどうのこうのと、細かく注意を払っていたのは最初の頃だけで、このところは作業の効率化を優先して遮二無二に働いてきた。枯れササ材から見つかる昆虫はもう大方を観察できているからでもある。

 今朝はニホンホホビロコメツキモドキの大きなメスと、小さなオスがササを割ったときに転がり出てきた。写真画面左がメス。本種は幼虫が育つササ筒の大きさなど成育の条件に相関して、成虫の体長の個体差にはバラツキが大きい。今回はメスが大きくてオスが小さかったが、大きさのバラツキに雌雄の差はほとんど見られず、メスでもかなり小さい個体もあり、オスでもかなり大きい個体も見つかる。

新開 孝

ナガサキアゲハの蛹を拾う 2008/01/25(その2)
 昨日、散歩の途中でナガサキアゲハの蛹を拾った。蛹が落ちていたのは、人家の片隅に一本あったミカンの木の下だった。そのミカンの梢を見上げてみれば、枝先に紛れるようにして、もう一つの蛹が見つかった。

 ナガサキアゲハは食樹からあまり離れずに蛹化する傾向があるのだろうか?ミカンの枝で蛹化したものはほとんどが緑色型だ。ミカンから落下した蛹はどういうわけか帯糸が切れてしまったようだ。その落下したタイミングが、蛹化直後だったのか、蛹の体表面の傷も目立つ。

 写真は上が背面、中が側面、そして下が腹面である。今日の写真は蛹の体の凹凸を強調するようなライティングで撮影してみた。

( OLYMPUS E-3  マクロ50ミリ)新開 孝

朝焼けの霧島山 2008/01/25
 雲一つない朝を迎えた。霧島山は朝陽を浴びて薄赤く染まっていた(写真上)。しかし気温は低く、零下となった。あちこちで氷が張った。

 南西の空を仰ぐと、月が綺麗に見えた。そこでカメラを向けてみると鳥のシルエットが偶然入った。カラスがチョウゲンボウを追いかけていたのである。
 チョウゲンボウは小さな猛禽類だが、カラスに執拗に追い回されていた。

 カラスはときに自分よりか大きいオオタカなどにもちょっかいを出すが、その理由が私にはよくわからない。オオタカはカラスなどは横目で見て相手にしないのだが、ともかくしつこいのがカラスの習性のようだ。まあ、あまり調子に乗っていると、カラスはオオタカに喰われてしまうこともあるそうだ。

 もっとも体の小さなチョウゲンボウではカラスを喰うことはないけれど、あまりにしっつこいと、チョウゲンボウも怒ってカラスを追い払う行動に出るのを、今日は昼過ぎに観察することができた。
 小さいとは言っても、やはりチョウゲンボウも猛禽類の威厳を示した、というところであろうか。

(E-3  50-200ミリズーム)


 新開 孝

タカハヤの稚魚 2008/01/24
 東京に住んでいる頃は、水槽でメダカを飼っていた。メダカの飼育は嫁さんの趣味でもあった。
 しかし宮崎に引っ越すことになって、飼っていたメダカは手放すことになった。いずれ新居の近くでメダカなどはいくらでも見つかるよ、そう思っていた。

 昨年の春に、うちの近くの田んぼの水路で掬ってきたのは、最初はメダカだと思い込んでいたが、しばらくしてどうもそうではないなあ、と感じ始めた。大きく育ってきて、これはもう完全にメダカでないことだけははっきりした。しかし、ではなんという魚だろうか?淡水魚について素人の私がいくら図鑑を眺めてもどうにもわからない世界だった。

 昨年の11月末に自然写真家の武田晋一さんと坂本陽平さんが我が家に来て下さった。これはもう淡水魚の専門家お二人が見えたのだから、と真っ先に水槽の中を鑑定してもらったのは言うまで無い。
 すると一目見て、「これはタカハヤの幼魚ですね」と明解なお答え。さすがだなあ!と感動。
 写真上は水槽の中で泳ぐタカハヤの幼魚。水槽をそのままで撮影したから水の汚れや水槽ガラスの汚れなど甚だしい。
 
 タカハヤは、大きくなっても10センチ程度だ。分布は静岡県や富山県から西に偏っており、近似種のアブラハヤは福井、岡山両県より東の本州のみに分布する。つまり九州においてはアブラハヤは分布していない。

 しかし、タカハヤの稚魚が見つかった水路はどう見ても閉鎖的な環境だ(写真中、下)。水路は写真画面後方の杉林の奥の湧き水から続く田んぼの用水路でしかない。この近辺ではタカハヤの成魚が住めるような流水環境はないに等しい。
 では、いったいこの稚魚たちはどこからやってきたのだろうか?

 今の時期、ふたたびこの水路を訪れてみれば、昨年と同じようにタカハヤの稚魚がメダカのごとく数匹が群れ泳いでいる。たしかによく考えてみれば不思議な光景だ。親はどこで卵を産んだのだろう?
 ふと貯水槽を覗き込んでみれば、片隅にはサワガニが佇んでいた。以前はイモリも泳いでいたことがある。こんなわずかな水環境でも様々な生物が出入りして利用しているのだ。貯水槽のコンクリート枠の上にはいつも真新しいイタチの糞が必ず見つかることも忘れてはならないだろう。

 つまりこの貯水槽は、様々な生き物の生活における交差点のような場所になっているとも言える。まさに些細な観察でしかないが、このようなこだわりが大切なのである。
 
新開 孝

ハエがハエを喰う 2008/01/23
 北風が冷たい一日だ。ようやく雨は上がった。
 それでも庭のアブラナの花には、ハナアブやハエ類がたくさん来ている。

 さすがにミツバチの姿は無いな、と思いながら花壇を覗き込んでいると、フンバエ類の一種を見つけた。しかも大きな獲物を抱えている。本種はもっとも普通に見られるヒメフンバエではないかと思うが、このように成虫は他の小型昆虫を捕食する。獲物のサイズは自分と同じくらいの場合もあるが、その狩りの様子はうまく観察できなかった。

 写真では捕食されている傍で、キンバエの一種が悠然と花粉を舐めている。ヒメフンバエが捕食者であることを彼はまったく知らないのかもしれない。ヒメフンバエの幼虫は獣糞を食べて育つが、この辺りでは牛糞が餌となっているのだろう。

(写真/OLYMPUS E−3  35ミリマクロ+1.4倍テレコン)


 今朝はまたもやチョロが行方不明になっていた。気付いたのは午前7時過ぎ。首輪に留める金具が壊れてはずれてしまったようだ。昨年の暮れに付け外しし易い金具に取り替えたのだが、その取り付け部分が甘かったと思う。チョロはかなり暴れ回ったような形跡があり、そのせいで接合部がねじ切れてしまったようだ。しばらくあちこちを探し回ったが、諦めて戻ってくるのを待つことにした。

 午前9時40分ころ、犬小屋の近くにチョロが戻ってきた。お腹や後ろ脚が泥んこまみれになっていた。朝ご飯も食べずにどこを徘徊していたのだろうか。楽しくたっぷり遊んで来たのか、それとも一時は迷子になっていたのだろうか?
 飼い主の不手際で生じた脱走だから、チョロを責めるわけにはいかないが、おかげで午前中いっぱいは仕事が手につかなかった。昨日、今日の脱走事件には少し思い当たるところもあって、それで留め金がはずれたりしたのかもしれない。
 しかしうちのチョロはもう少し観察してみないと、どういったはずみで留め金がはずれることとなったかは、今のところは断言できないようだ。
新開 孝

マムシ 2008/01/22
 今朝はうっかり犬の鎖止めが掛かっていなくて、飼い犬チョロが逃亡してしまった。まあ、こういうことは何回か経験しているが、そのたびに私は少しうろたえる。なにさまチョロが飼い犬となったいきさつは、迷子になったことだから。

 しかし、今日は雨が降っていたせいだろうか、チョロは30分もすると何喰わぬ顔をして戻って来た(写真上)。
 こやつは犬の性分だろうけれど、どこでもかしこでも鼻先を突っ込んではクンクンと臭いを嗅ぐ。そのたびに私はハラハラしていたものだ。
 私がチョロの首輪に繋がったロープを握りながら、ときおりハラハラしていた理由を少し説明しよう。

 先日、視覚障害者福祉会の講演のあと、そのメンバーの方(Kさん)とお話をしていたとき、私の家のすぐ下の田んぼの辺りではマムシが多かったということを聞いた。その方は10年前までは視力があり、当時の環境を私に詳しく話して下さった。Kさんは、今私が住んでいる敷地のすぐ下の谷津田で稲作りをしていたそうで、子供のころも野遊びでこの辺りをあちこち駆け回っていたそうだ。今は杉の植林となっている場所もほとんど、かつては雑木林だったという。

 それで、今もマムシはいますか?とKさんから問われて、私は見たことはないけれど、いてもおかしくはない環境です、と答えた。そうなのである。おそらくマムシはいるだろうと、私は感じているのである。昔よりか数は減っていても確実に生息しているだろうと感じるのである。
 この感じる、という感覚は私が過去20年間のフィールド歩きで体得したものであって、とくに具体的な証拠を示せるわけではない。でも、マムシはいるだろうという確信が私にはある。マムシが棲息している、というのはそれだけまだ自然が濃く残っているということだろう。
 
Kさんの話では、草取りをしていた知り合いのある方が、チクリと指先に痛みを感じ、そのまま放っておいたら夜中に腫れて痛みが激しくなったそうだ。なんとそれはマムシに噛まれていたのだ。
 気付いたときは手遅れで、その方は亡くなったという。

 だからこそ、チョロが草やぶに鼻先を突っ込む姿を見ていると、私は危険を感じてしまうのであった。しかし、犬はマムシに噛まれたりしないのだろうか?という疑問も湧く。犬はそれほど不用心であろうか?毒蛇にはどういう反応を示すのだろうか?もっともこのところ、毎日のようにチョロの顔にはマダニが付着しているが。

 以前、和歌山県の古座町でニホンミツバチの取材をしたときに、興味深い話を伺ったことがある。古座町周辺の山地では紀伊犬を使った、イノシシ狩りがさかんであり、そうした狩りではイノシシを生け捕りする機会も多い。檻のなかで飼われるイノシシにいろいろと餌を与える際、ヘビのアオダイショウなどは嫌って食べないそうだ。アオダイショウは人の嗅覚でも臭いというから、そうなのかもしれない。
 ところがマムシを檻の中に投げ入れると、イノシシは喜んでこれを喰うそうだ。イノシシはマムシが大好きというのだ。

 たしかに、マムシは同じヘビのなかでもその姿からして、かなり違うイメージを受ける。ヘビの苦手な私でも、妙に惹き込まれる姿態と感じるのである。

 8年前のこと、そのころTBSブリタニカという出版社から『里山大百科』という写真集を共著で出した。今は阪急コミュニケーションズという社名に変わってしまったが、まあそれはともかく、共著者3人で編集作業を進めるなかで、私はヘビの頁を削除するようにかなり主張したのであった。その理由は、うちの嫁さんが大のヘビ嫌いであり、自分が出した本を嫁さんが絶対に見てくれないことはわかっていたので、ただその理由がために、私はかなり執拗に、ヘビの頁に反対したのであった。
 虫が嫌いな人も世の中にはたくさんいるけれど、ヘビの苦手な人ももっと多いことだろう。私も苦手の部類に入るが、それでも努めて理解してみようとしている。まだ手で掴むことはできないが、うんと接近してときどき撮影はしている(写真下/数年前に東京都清瀬市で撮影したアオダイショウ)のだ。



 
 
新開 孝

『小てんぐ小太郎』 2008/01/21
 正月休みに帰省した松山の実家で、ちょっと懐かしい雑誌を見つけた。

 7年前に出版された『おおきなポケット』2月号(福音館書店)である。この雑誌では「はねがあったら」という表題で特集が掲載され、私と野鳥写真家の平野伸明さんとが写真を担当し、そして添えられた文章はアーサー・ビナードさんという米国ミシガン州出身の詩人という組み合わせであった。はねをもった鳥と昆虫のお話をビジュアルにまとめてみたわけだ。

 文章を誰にやってもらうか、ということでは担当編集者の方にいろいろと尽力していただいた。アーサー・ビナードさんとは面識がないが、プロフィールによれば私よりか10歳下で、かつては昆虫少年だったそうだ。アメリカにも昆虫少年がいて当然だろうが、昆虫少年というイメージはヨーロッパが本場ではないか、という思い込みが私にはあった。
 アーサーさんは表意文字に魅惑されて来日し、それ以後東京に住んで詩作や翻訳活動をしているそうだ。
 私たち日本人は何でもかんでも欧米文化に対して劣等感を抱き続け、そして憧れているけれど、自分たちの文化をもっと誇りにしていいのではないか、そう思うことは多い。

 さて、懐かしい誌面を開いてみれば、折り込みふろくの『小てんぐ小太郎』という漫画が目に入った。すっかりこのふろくのことを忘れていたが、この漫画を描いたのは秋山亜由子さん。うちには秋山さんの単行本も何冊かあって、子供の読み聞かせにもよくせがまれる。虫や小さな自然を題材に、想像力豊かな物語を展開してくれる秋山さんの漫画には嵌ってしまう。登場するキャラクターがなんとも可愛い。

 今日は、急遽プリンターを買った。これまで使ってきたエプソンのPM-4000PXの調子がずっと悪く、プリントに引っ掻き傷が出てしまうからであった。こういう物理的な故障はもう修理出しするしかないのだが、今は仕事の都合上、プリンターがないと困る。そこでさっそく買ったのは、CanonのPIXUS ip4500というA4対応の新機種。何といっても安かったし、印刷速度がかなり速いのが良い。最初はエプソンのPX-G930という上位機種を買うつもりだったが、PIXUS ip4500が2台買える金額でもあり、使用目的を考えればPIXUS ip4500で充分過ぎると思えた。

 

 新開 孝

講演 2008/01/20
 今日は地元の三股町視覚障害者福祉会の新年文化研修会で講演をさせていただいた。講演は東京の清瀬市を去る前の3月なかばにしたのが最後だから、ほんとうに久しぶりだった。

 題目は『昆虫写真家の仕事とは何か』というものであったが、私がなぜ三股町に引っ越して来たのか、どのようにして昆虫写真家という職業に至ったのか、という辺りを中心に50分間の予定でお話しさせていただいた。

 昨夜は夜中に目覚め、考えるともなく20数年前の記憶が次々と蘇り、お話ししたいことがあまりも多くなり、これを50分でまとめるのはたいへん難しいなあ、と感じていた。せめて1時間半はほしいなあと思いつつ、今朝の本番ではやはり少しまとまり悪い話となってしまった。しかし、講演を終えてみればきっかり45分だった。一度も時計を見ることなく話していたので、これは自分としてはよくできたように思った。

 さて、今日の写真は、最近読んだ本の一冊。『白畑孝太郎 ある野の昆虫学者の生涯』(無明舎出版)。著者は永幡嘉之さん。本書は山形新聞に連載された記事に加筆されたものということだが、出版は昨年12月。
 ともかく永幡さんの熱い情熱で語られる文章に惹き込まれるように、一気に読み終えた。永幡さんの肩書きは自然写真家だが、それ以前にじつに真摯な生物学者であり昆虫学者である。私は3年前に初めて永幡さんにお会いし、山形のフィールドを案内してもらったことがあるが、そのときに受けた印象が本書を読むことで再び強く蘇り、故,白畑孝太郎の生涯を熱く綴る彼の文章からは、彼自身の真の内面の姿を汲み取れる気もした。

 私たちは常に先人の姿や足跡を見つめ、自分の足下を見直す作業が必要に思う。歴史に何を見出すのか、その視点をしっかり持ちたいものだと少しまじめに考えたりした。

新開 孝
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