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ヤママユ繭殻とカシアシナガゾウムシ 2007/02/22
所沢市、下新井の雑木林と、三芳町、多福寺の雑木林を歩いてみた。

下新井の林のなかにポツンと生えたシュロの葉裏で、ヤママユの繭殻を見つけた(写真上)。
どうやら近くのコナラで育った幼虫がここまで移動してきて営繭したのだろう。シュロのような
葉っぱでは、繭作りに先立って舟形に加工するのは難しかったようだ。

多福寺のコナラの小木では、「ダッコちゃん」のごとくしがみついたカシアシナガゾウムシの
姿があった(写真2)。

今日は歩き回るうちに汗ばむほどであった。

(写真上・E-330 魚眼8ミリ)
(写真下・E-500 35ミリマクロ+1.4倍テレコン)
新開 孝

昆虫写真家 2007/02/18
 昨夜は、海野和男さん、藤丸篤夫さん、湊和雄さんたちと都内で飲んだ。
私が来月には宮崎に移転するということで、ちょうど沖縄から東京へ来ていた湊さんの計らいで壮行会を催してくれたのである。

 たいへん有り難いことであり、なおかつこうして数少ない昆虫写真家が集まり顔を会わせる機会というのも滅多に無い貴重なひとときであった。

(EOSキッスデジタルN EF15ミリ魚眼)

 『「昆虫ある記」武蔵野編の終焉にあたりーその8』


 高校生のころの私はカメラと無縁であったので、自然観察の記録を残すにはスケッチをするしかなかった(写真中のスケッチは神社のナツフジで見つけたコミスジ幼虫)。
 しかし、日々の発見はあまりにも数多く、いちいちスケッチで描くのはもどかしかった。やはりカメラがどうしても欲しかったのである。
 
 ところで当時は(30年前頃)、今のようにインターネットで気軽に様々な情報を入手できるわけでもなく、またチョウに詳しい方が身近にいたわけでもなく、ローカルなフィールド情報などがなかなか手に入りにくかった。
 それでどうしたかというと、無料で入館できる県立博物館をよく利用した。展示されている標本箱を覗き込み、標本に付いているラベルのデータを一生懸命に読むのである。黄ばんだ古いデータのラベルの場合は、すでにその産地の環境が激変してしまいあまり参考にはならなかったが、新しい年月のラベルが付いているのを発見すると、興奮しながらメモをとるのであった。メモの数が多くなってくると、今度の日曜日にはさっそくそのデータにあった産地へ行ってみよう、と算段を練るわけである。
 また、高校1年の冬の修学旅行では伊豆、東京都内、日光などを巡ったのであるが、私の一番のお目当ては、神田の書店街に行く事であった。
 たしか書泉グランデだったと思うが、『新しい昆虫採集案内U、西日本採集地案内編』内田老鶴圃新社(ろうかくほ)1971年刊を見つけ、さっそく購入した。
 本書を読めば、どこそこへどういう時期に行けば、どういうチョウや昆虫を採集できるか、見えるか、という情報を手に入れることができた。

 (採集地案内などというと、自然保護団体や生きもの愛護団体などから猛烈な攻撃を受けそうであるが、昆虫は、採集してくわしく調べるという段階無くしては、何も見えて来ない。その行為は学者だけの力では到底及ばず、昆虫学が成り立つためには全国にいるアマチュアの標本収集の成果も欠かせない。また知の楽しみには、採集を通して昆虫に触れ、体のすみずみまで理解するという作業も含まれる。昆虫は小さいので、標本にせずとも手に取ってみなければ、種名の確認もできないし、体のつくりも理解できない。網を振ることを神経質にやたらと取り締まるのも考えものだ。写真に撮って、あとから名前調べをしようというのも、まったく無駄ではないが、昆虫の種類は多過ぎて、正確な同定が不可能なことがほとんどである)

 さて、『新しい昆虫採集案内U、西日本採集地案内編』を開くと大扉には、日光浴するオオルリシジミ♂のカラー写真が載っている。撮影者は海野和男さんで、撮影データは信濃追分、1971年6月13日とある。
 チョウの生態写真をこんな風に自分も撮ってみたい、と当時はずいぶん羨ましく思ったものだ。ところが『新しい昆虫採集案内U、西日本採集地案内編』の巻頭には34頁を割いて、ちゃんと昆虫写真入門の記事が載せられており(岸田功氏著)、修学旅行のバスの移動時や、帰りのフェリー(徳島行き)のなかで、貪るように読み耽ったのは言うまでもない。
 まだカメラを持ってはいなかったが、いづれ購入できたときには、いつでも迷う事無くカメラを操作できるようにと、撮影法については何度も何度も頭に叩き込んだ。
 また、『新しい昆虫採集案内U、西日本採集地案内編』の各頁には、赤線があちこちに引かれており、当時はたいへん興奮しながら、勉強そっちのけで毎日読み耽っていたことが想い出される。
 今朝、久しぶりに本書を開いてみれば、「宮崎周辺」という頁にはことさら熱心に赤線が引かれてあることに気付いた。
 結局、私は学生時代のあいだに宮崎を訪れることは一度もなかったのであるが、採集地案内の文章や地図を繰り返し読み、眺めては、宮崎を訪れる日に焦がれていたようだ。
 (高校時代、そして大学を通じて、私は遠征することはほとんどなく、もっぱら自転車で行ける範囲、あるいはバスで日帰りできる「皿ヶ嶺」(実家のすぐ南にお皿を伏せたような山容が見える。ベニモンカラスシジミが初めて発見されて一躍有名にもなった、標高1270メートルの山)などのフィールドを巡る日々を過ごしていた。)
 なんとそれから30年も経った今、ようやく宮崎の地を訪れ、そしてあれよあれよと言う間に、移住を決意した。
 どうやら宮崎指向は高校生のころからすでに芽生えており、それがいつの間にか忘れ去っては、ふと想い出し、ということを繰り返してきたように思う。

 愛媛大学の昆虫学教室に入り、4年間の学生生活を過ごすうちに、とりわけ足田輝一さんの著書や写真などから影響を受け、武蔵野の雑木林や自然に憧れるようになった。
 大学を卒業後も就職先は決まらず、半年ほどは県立博物館などでバイトをしていたころ、ふとしたきっかけで、私は急遽、東京の出版社「学研」の学研映画という部署で演出助手という仕事につくことになった。そのことが私の人生で一つの大きな転機になったのは言うまでもない。


新開 孝

昆虫写真のプリントアウト作業 2007/02/13
 来月、3月10日から開催される写真展『清瀬の昆虫たち』のプリントアウト作業が、本日でほぼ完了できた。

 A1サイズの大型プリント数点は別途、発注することになるが、展示全般を占めるA3サイズのプリントは全て自分で出力した。チラシ広告でのプリント枚数記載は120枚となっているが、作業を進めているうちにかなり枚数がオーバーしてしまった。全部の写真を使えば、一冊の写真本ができる。

 私の昆虫写真では、やはり組み写真で見ていただきたい場面が多い。するとどうしても写真点数が増えてしまう。作品性の高い写真を並べて鑑賞していただく、というより、とくに今回は昆虫世界の面白さを少しでも味わって欲しいと思っている。
 各写真に添えるキャプションはこれからの作業となる。昆虫写真を読むという意味では、キャプションが無いとどうしようもない。しかし、あまり長い文章だと写真展では誰も読んでくれないので、短くまとめる必要がある。



『「昆虫ある記」武蔵野編の終焉にあたりーその7』

 私が高校生だったころには、まだカメラを手にした事もなく、もっぱらカメラのカタログを眺める日々を過ごしていた。欲しいとは願っていたが、カメラというのは金持ちの道楽だと思っていた。
 高2になると、進学のことで学校側はやたらとうるさくなってきた。国立大学や有名私立大学に自分の高校から何人を送り込めるか、その算段で先生方の頭の中は一杯のようであった。しかし、私の頭のなかは、チョウや自然のことで一杯になっていた。学校に行くのがいかにも苦痛となり、そのせいか毎朝、遅刻するのは当たり前になってしまった。それでも唯一、興味を持てた授業は生物の時間と現国だった。化学、物理、数学は最悪で、それぞれの担当の先生も大嫌いになった。
 ある日、試験の成績が悪かったせいで、化学の先生から呼び出された。その場でいくつか簡単な化学の問題を口頭で出題され、やはり見事に答えられなかったら、「お前の様なヤツは、うちの学校には必要ない!」と言われてしまった。日頃から毛嫌いしていた先生からそう罵られて、むこうも私を嫌っているなら、ちょうどいいや、そう思えて、むしろ晴れやかな気分になれたのを覚えている。授業では化学の面白さよりか、とにかく受験のために覚えろ!という教え方に私は反撥し、ますます化学嫌いになっていった。今でも化学は嫌いである。

 だがしかし、それでも私が登校拒否にまで至らなかったのは、高1、2と続けて担任だった英語の先生の存在が大きかった。
 このT先生は、授業に入る前に必ず前座のお話の時間を設け、それがけっこう長いのでうれしかった。お話の内容とは、ほとんどが先生自身の趣味の披露であった。毎回、楽しそうに語っておられた。
 多趣味な先生だったが、学生時代には生物学を専攻し、そのころ昆虫採集をした経験談を話してくれたこともあった。また先生はカメラにも凝っていて、写真クラブの作品には昆虫を対象にしたものもあった。現実のなかでは遠い存在に感じていた先生だが、いかにもつまらない授業の数々のなかで、この先生のお話を聞けるのは、大きな救いにもなっていたのである。

 高2のある日、T先生がクラスの全員一人一人に、将来の進学や就職の希望を語らせたことがある。とにかく授業は二の次であった。語るのが好きな先生だった。だから生徒にも語らせた。
 同級生のなかでも女子数人のあまりにもしっかりと将来を見据えた発言には、驚いたものだが、やがて私の番がやってきた。
 自分の将来に進むべき道については漠然としていて、何も具体的な希望がまとまらないでいた私だが、それでも勇気を出してこう発言した。
 「あ、あのう、ぼくは、そのう、何か土に接するような仕事でもできればいいかなあと思います。自然とか虫とか好きなんで。それで大学は農学部なんかが良いかなあ、、、と」

 次の瞬間、なぜかクラス中が大爆笑となっていた。「新開は、なんぞお!百姓になりたいんかあ!!アハハハハ!」という揶揄まであって、私は顔を真っ赤にして席に着きながら、自分の発言について後悔したのを覚えている。
 同級生に対して、私が勝手に決別の念を抱いたのはそのときであった。というか、普段から回りの同級生に対しては距離感を感じていたのであるが、その出来事は決定的となったのである。なんといっても、そのころほのかに好感を抱いていた女の子さえも、その笑いの渦のなかの一人であったことがショックであった。今にして思えば、おそらく私に対して揶揄の念をもって笑った者は、一部の同級生だけであったろうが、ひとたび被害妄想に囚われた私が、もはや冷静な考察などできるはずもなかった。
 チョウや自然に興味を抱きながらも、将来の進学先として理学部の生物ではなく、農学部を視野に入れ始めていたのは、やはり昆虫学という講座が農学部にある、という情報に敏感になっていたせいであろう。そして、広く生物学というものに憧れなかったのは、そこに自分なりのロマンを見出せずにいたからに他ならない。

 その反面、「昆虫学」という言葉の響きには、いかにも憧れを感じていた。


 その8、に続く。新開 孝

『新開 孝/写真展のお知らせ』 2007/02/09
 来月の3月10日(土)から18日(日)まで、清瀬市郷土博物館で「清瀬の昆虫たち」と題して写真展を開催します。

 今回の写真展は、過去3年間、清瀬市内で撮影した中から主に写真を選んでみました。ですからこの『昆虫ある記』でアップした写真と内容的には重複しているものもあります。ただし、あまりマニアックな内容に偏らないように、テーマは大きく「四季の昆虫」、「野生のカイコ」、「仮面博覧会」、「化ける昆虫」という4項目で構成しました。普段は昆虫に対してあまり興味の無い方でも、すこしは楽しんでいただければと思っています。
 ほとんどの写真は清瀬市内で撮影されたものですが、「野生のカイコ」のコーナーだけは、お隣の所沢市で撮影したものが多く含まれています。このコーナーでは繭殻やヤママユ絹糸の織物などの実物展示も行ないます。

 虫の嫌いな方でも、せめて「ふーん、虫の世界にも面白いことあるんだなあ。」程度に気持ちの変化を感じるようになってもらえればいいと思っています。好きになるのは無理だけど、せめて気持ち悪い、という感覚から少しでも遠ざかってもらえれば、それでいいのではないか、と思います。虫にも可愛いやつがいるのよ、そういう発見をしてもらえる機会を得ていただく、そういう場を作るのも私の仕事だと考えています。虫を触るのはやはりどうしても気持ち悪い、恐い!というのも仕方が無いでしょう。それでも眺めるだけなら、遠くから見るぶんには(昆虫は小さいから近付かないと厳しいですが、、、)それなりに楽しいじゃないか、そういう感覚へとシフトしていただければ、それも良いかと思うのです。

 さて、写真展の最終日18日(日)には、私の講演があります。会場のこともあって、定員50名まで事前に予約をとることになっています。50席もあれば、おそらく空席もけっこう残ると思われますから、当日に飛び込みでも大丈夫かとは思っています。開演は午後2時です。

 写真展開催中はできるだけ、当人も会場にいるようにするつもりです。出向けない場合や、いない時間帯については事前にこの『昆虫ある記』でお知らせします。
 

 
新開 孝

アサギマダラの幼虫 2007/02/07
 今日は、前から気になっていた冬のアサギマダラ幼虫を撮影しに出掛けた。

 場所は高尾山だが、車の運転で往復に要した4時間というのは、現地での滞在時間(1時間)よりはるかに長い。目的を一つに絞ったこともあるが、早朝に動くことができれば、こんな無駄もせずに済んだと思う。

 ともかくも高尾山で幼虫を見つけるのはごく簡単であろうと思っていた。で、その通り探索開始後5分もかからぬうちに最初の一匹が見つかった。
 アサギマダラの食草、キジョランは常緑のつる植物で、薄暗い林内でさまざまな木々に這い上がっている姿がよく目立つ。乾燥続きであるせいか、キジョランはどの株も葉っぱが萎れて元気がない。最初は人によって根元を刈られたためであろかと、そう思えたほどだが、ほとんどの株が萎れたようになっていることと、近付いて根元まで見ても、刈られた痕跡はまったく見つからなかった。

 アサギマダラの越冬北限は、関東山地ということで、ここ高尾山は昔からよく知られた産地の一つである。越冬といっても、幼虫は暖かい日などは少しずつ食草を食べており、完全な休眠状態ではない。
 したがって幼虫を見つけるにはその幼虫がかじってつけた丸い穴を探せばいいわけだ。幼虫は必ず、葉裏側の食べ痕のそばで見つかる。
 写真の幼虫のステージは2令あたりだろうか?ちょうど葉裏表面をかじっては、乳液を吐き出しているところだった。
 幼虫が食事をするときには、あらかじめ円を描くように浅くかじって、キジョランの浸出液を出させてから、その作業を終えてから円内を食べるという作法がある。この食べ方は、カラスウリの葉を丸く穴をあけて食べるクロウリハムシや、トホシテントウ幼虫たちの習性とよく似ている。

 このところの暖冬もあって、アサギマダラ幼虫たちは、ゆっくりではあるがキジョランの葉っぱを食べる毎日を過ごしているようだ。そういう真新しい食べ痕が多数、見つかる。
 通常、越冬幼虫といえば、じっと動かず深い休眠をとっているものが多いが、アサギマダラの場合は、かなりそのイメージとはかけ離れている。

 今日で、高尾山も見納めとなった。

(写真上/E-330  魚眼8ミリ+ケンコーKAGETORI使用)
(写真中、下/E-500  35ミリマクロ+1.4倍テレコン)
 新開 孝

テラ・インコクニダ!  とは。 2007/02/06
 『「昆虫ある記」武蔵野編の終焉にあたりーその6』

 30年ほど前に読んだ本の一冊に、中公新書の『自然観察入門』(日浦 勇著)がある。
当時、高校生だった私は本書から大きな刺激を受けた。読者を目の前にして語りかけるかのような、明解でわかり易い文章にグイグイと引っ張り込まれ、一気に読み終えたと記憶している。
『自然観察入門』を読み終えた次の日、私はまず大きなポリ袋を提げ、うちの周りの目に付く植物を片端から摘み取っては集めて歩いた。たしか雨の日だったと思うが、衝動的に植物の名前調べをしてみたくなったのだろう。すでにそのころの自分の心情を詳しくは思い出せないが、かなり熱くなったことだけは間違いない。そしてそのとき持ち合わせていた植物図鑑といえば、保育社のカラー自然ガイド『人里の植物T・U』であった。当時は1冊380円という高校生のお小遣いでも手の届く価格のうえに(現在は税込み735円)、巻末には植物の基礎知識が各巻50頁も添えられており、初心者にとっては植物学入門の好適なガイドブックであった。
大きなポリ袋に集めた植物は、家の周辺でどこにでも生えているものばかりだったが、どれとして正確には名前を知らず、私は自分の無知がとても恥ずかしくなった。
中学の頃からチョウに関心を抱き始めていたが、チョウの標本コレクションを続けるにはお金がかかる世界だと知り、興ざめるのも速かった。しかし、一方で普通種であろうとなんであろうと、チョウの生活そのものを知りたい気持ちが強くなり、そのためにはチョウの餌となる植物のことを知らなくてはどうにもならなかった。
あるチョウが、いつ頃どこに、どうやって卵を産み、そしてそこからどんな姿の幼虫が誕生して、いかなる生活を送り、蛹になる場所はどこなのか。そういう生態の場面を自分の目で実際に野外で見てみたい、そういう観察のほうが、成虫を採集するよりか面白くなり始めていた。

(もっとも、成虫を網で捕らえる醍醐味も捨て難いものがある。そしてネット(捕虫網)を振る楽しさは、今でもまったく失ったわけではない。ただ、当時としてはせっかく採集しても、チョウを展翅する道具や、高価な標本箱を調達できず、コレクションが続けられる経済状況になかった。)

さて当時、エノキすら正確に知らない、まったくの生物音痴だった私は、なんとかチョウに関わる植物だけでも識別できるようになりたいと、懸命にもがき始めたのである。そのような私を『自然観察入門』は適切に明解に導いてくれた。そして、今読み返してみても、本書を超えるような類書は他にないほどの名著と感じる。
  著者の故・日浦氏は、本書の中で「テラ・インコクニダ!見知らぬ土地が私たちの日常生活のすぐまわりにひろがっているのに、私たちはそれを知らずにねむり、食い、働き、疲れて死んでゆくのだ。テラ・インコクニダ!と口に出して言ってみよう。」と
語りかける箇所がある。いささか情熱過剰な表現にも思えるが、本書全般に込められた主張をもっとも言い得ている。

 「未知なる、土地=テラ・インコクニダ(ラテン語)」は、地球の果てまで行かなくても、まさに足下にある。この指摘を受けて目のうろこが落ちたと感じた人は数多いことであろう。自然観察の楽しさを伝え、そのノウハウを事細かく指導してくれる本書は、入門書という役割を果たす以上に、深い感動を読者に与えてくれる。30年経った今でも、多くの読者を魅了して止まないだろうし、今後もさらに読み続けられることであろう。そういう本作りを私も目指したいものである。新開 孝

狭山丘陵 2007/02/02

 お茶畑と雑木林、という組み合わせが狭山丘陵を代表する風景とでも言えるだろう。

 私が仕事をする上では茶畑に直接関わることはあまりないが、島状に点在する雑木林を渡り歩くときには、茶畑の縁を通過していくことになる。
 本来のチャは、樹高が5メートルにもなるそうだが、茶摘み用に栽培されているチャは、常に刈り込まれて1メートル以下しかない。
 秋に咲く白い花や、茶色の球形の実を見れば、チャがツバキ科の植物ということが、素人でもすぐにわかる。しかし、普段、日本茶をすすりながらツバキをイメージする人はほとんどいないだろう。

 私の場合、季節で言えば、冬に緑茶を一番良く飲む。特に食後の緑茶が最高に美味しい。しかしながら東京の水道水で入れた緑茶が、美味しいわけがない。普段はそれでも慣れてしまって平気で飲んでいるが、しばらく九州で過ごしてからまた東京でお茶を飲むと、ほんとうにびっくりする。よくもまあ、こんなひどい水道水を毎日、飲食用に使っているものだと。

(E-330  14-54ミリズーム)

『「昆虫ある記」武蔵野編の終焉にあたりーその5』

 昆虫写真家の大先輩方として、前回挙げたお名前のなかで、抜けていた方がいらっしゃる。正直書くと、忘れていたのであった。あまりにも身近な方であるが故に。
 その方とは私と同じ清瀬市在住の藤丸篤夫さんである。ごめんなさい。 私は、藤丸さんとは共著も出しているというのに、何という失態であろうか!お互いに自転車で行き来できる距離に住んでおり、年に数回ではあるがお会いしているというのに。しかし、藤丸さんは当「昆虫ある記」を読んだことがないらしい。それが唯一救いでもある。誰かが藤丸さんに告げ口しないかぎり、バレはしないと思うのだが、、、。

 さて、私が藤丸さんと初めて会ったのは、21年前の冬であった。場所は上野動物園内で、昆虫写真の入賞式の会場であった。当時、昆虫写真の発表の場として、月刊誌「インセクタリウム」があったが、その表紙と表紙裏には毎号、購読者が応募する写真が掲載されたのであった。
 毎年暮れには、その年に掲載された昆虫写真のなかから特に優れた写真が選抜されて、表彰されていたわけである。1986年、6月号の表紙写真が藤丸さんのコハンミョウの産卵シーンで、表紙裏には私の撮影したヒメクビナガカメムシの写真が掲載されたのであるが、私たちの写真はそれぞれ写真賞の2等を受賞した。

 私の入賞したヒメクビナガカメムシの写真は、初めて「インセクタリウム」に投稿して、しかも最初に掲載された写真でもあったので、かなり嬉しかった。撮影した場所は、当時住んでいた大田区の池上で、アパート近くの池上本門寺の境内であった。
 想い出深い写真ではあるが、その後このヒメクビナガカメムシを見たのは多摩丘陵で一度きりで、以後まったく出会いのチャンスがない。

 さてさて、同年齢の昆虫写真家としては、沖縄在住の湊和雄さんがいらっしゃる。湊さんは東京出身で、大学を琉球大学に進まれて、卒業後そのまま沖縄で自然界広くを対象とした写真家として活動を続けられている。
 私も高校の進学指導では「お前は琉球大学へ行け!」と担当教師から宣言されたこともあったが、ハブが恐いのと暑い所は苦手だったこともあり、またうちは貧乏で下宿などできなかったので、地元の大学を受験したのであった。もっとも地元の愛媛大学には全国でも稀な昆虫学研究室があり、親の膝をかじるにしても、少しは親孝行できるのではないか、と思えた。


 その6、に続く。

 
新開 孝

ノコギリクワガタの幼虫 2007/02/01
 昨日はカブトムシの幼虫探しをしたので、本日も人気者とされるノコギリクワガタの幼虫探しをしてみた。
 児童書の世界でクワガタムシといえばノコギリクワガタであり、このクワガタムシ以外の生活史をいくら撮影しても、そのような写真はほとんど売れない。チョウでいえば、アゲハやモンシロチョウの写真が引っ張りだこであるように。

 昨日、紹介したカブトムシ幼虫の探索ポイントは、朽ち木の根元であったが、ノコギリクワガタもそれと同じポイントである。つまり、根っこがグラグラになった朽ち木を探し出せば良い。
 もっとも、カブトムシの場合は、単に転がっている朽ち木を起こすだけでも、けっこう見つかる。その場合、朽ち木が半分かあるいは三分の一程度、土に埋もれている方が、さらに確率が高くなる。

 さて、まずはめぼしい朽ち木を求めて雑木林を歩く。このときのワクワクする気分がとても良い。「さあ、狩りにでかけるぞ!」という、本能にでも触れたような気分になるからだろうか。
 朽ち木を品定めしながら、背の高い朽ち木なら、まず体ごと寄りかかってみる。切り株のような朽ち木であれば、足を乗せて力を込めてみる。ここの林では圧倒的にコナラの朽ち木が多い。グラッと、それこそ抜けかかった乳歯のごとく手応えがあれば、しめたものだ。
 二度三度と、揺らしているうちに、朽ち木は根っこを地上に現して、でんぐり返る。
 (ここで水をさすようだが、「昆虫写真家」という仕事は良いなあ、と安易に思ってはならない。目指すノコギリクワガタの幼虫を必ず見つけ、しかもその場で写真になるシーンをおさえ、なおかつその後の撮影の展開も考えて、必要な数の幼虫も確保する、という段取りをきちんとこなす必要があり、だからこそ仕事として成立する。あくまでも仕事なのである。で、しかしながら、そういう作業を楽しみながらこなせる余裕もなければ、この仕事は続かない。)

 さてさて、良く朽ちたコナラの根っこには、数本の太くて短い根が、それこそタコの足のように生えている。その足はどれも土にまみれている。そしてしっとりとしている。ノコギリクワガタの幼虫は、そういう根の中に潜んでいるのだ。そんな湿った環境を好むようだ。コクワガタだと、もっと乾燥した朽ち木内からも見つかるし、湿ったところでもいるが、ノコギリクワガタは、コクワガタよりか、もっともっとデリケートな質のようである。

 ところで、根っこの部分は朽ちてはいても、かなり固い。この根っこを慎重に削っていくには、よく切れるナタを使う。削るというか、叩き割るという作業になるが、ヘタをすると中にいる幼虫を傷つける恐れもある。(ナタは使い慣れないと、自分自身を傷つけることもある。とくに高校生、中学生の方々、余程、注意して扱って欲しい。指の一本位は簡単にすっ飛んでしまうくらい、ナタは恐い凶器にもなる。)
 ナタをふるっているうちに、幼虫の糞が断層のごとく現れてくる。「よしよし、そろそろ要注意だな。さらに慎重にいかねば。」とつぶやきながら、ナタを朽ち木の繊維に沿って振り下ろす。

 と、突然、幼虫の頭が見えてきた(写真中)。
 ここからは、もうナタは使わない。根っこの部分は硬いので、コクワガタのように、スッキリと幼虫の坑道が割り出せるケースは少ないからだ。無理してナタやナイフなどで坑道を拡げようとすれば、幼虫を傷つけることになりかねない。

 そこで、細い枝や松葉を幼虫の口に持って行き、それに噛み付かせる。幼虫が噛み付いたら、そっと引っ張り出せばいい(写真下)。幼虫を釣り出すというわけだ。

 ノコギリクワガタを飼育する目的で、今日は数匹の幼虫を採集した。また、ノコギリクワガタの幼虫が、どんな場所で過ごしているのか、そういうカットも撮影した。根っこの朽ち木で生活するノコギリクワガタ幼虫が、このあとは、土中に移動し、土の中で蛹室を作ることも容易に想像できた。
 これまで、児童書の多くで使われているノコギリクワガタの生態写真では、蛹室が朽ち木であることがほとんどであるが、どうやらそれはむしろ例外的であると思える。(偕成社の自然の観察事典シリーズ「クワガタムシ」筒井学/写真、文、ではこの点をきちんとおさえてあり、とても参考になる。)

 人気者のノコギリクワガタを、私なりにきちんと撮影してみようと思うのだが、それにはまず、野外での彼らの真の姿を自分の目できっちり観察してからでないと仕事は始まらない。こんなことは当たり前のことではあるが、しかしながら、今の世の中はなんでも簡単に情報が手に入るから、いつのまにか知っているつもり、になってしまう傾向が強い。
 また、ノコギリクワガタの幼虫などは、お金で簡単に手に入れたり、ブリーダーと称する方から譲り受けて、やろうと思えばそれこそ手軽に写真も撮れるのであるが、しかしそれでは、昆虫写真家の仕事とは言えない、そう私は考える。

 

新開 孝

カブトムシの幼虫 2007/01/31
 雑木林を歩いてカブトムシの幼虫を探してみた。
 
 効率良く探すには、まず朽ちた切り株を見つけることだ。乳歯が生え変わるときに歯はグラグラになるが、そんな様な切り株が良い。
 ユサユサと切り株を揺り起こしてみて、土に混じって多数の糞が出てくればしめたものだ。

 今日は根っこの土が絡んだところに、大きな幼虫が数匹潜んでいた。
根が埋まっていた土中もそっと掘り返してみれば、そこでも数匹の幼虫が見つかった。
 堆肥の山はもっとも探し易いが、農家の人にことわってからでないとむやみに掘るわけにはいかない。

 もっとも朽ち木の切り株を起こしたあとは、きちんと元のように埋め戻しておこうではないか。
 最近はペットボトルを工作して工夫した昆虫トラップを仕掛ける人が多くなったが、一方ではその仕掛けを回収せずに放置したままの光景が非常に目立つようになった。今日の所沢の雑木林でもその未回収のトラップがやたらと目につく。そういうのは、いけんぞなもし!
 
(写真/E-330 魚眼8ミリ)
新開 孝

冬の人気者とは 2007/01/30
 雑木林で冬越しする昆虫のなかでも手軽に見つけることができる種類といえば、今日のイラガの繭(上)や、ウスタビガの繭(中)、そしてヤママユの卵(下)、などが挙げられるだろう。
 
 ヤママユの卵の大きさは、昆虫の卵としては最大クラスであるし、ゼフィルスの卵探しに比べれば、はるかに容易い。枝を手に取る事無く、青空に透かして枝のシルエットを眺めていけば、ホイホイと見つかる。

 ウスタビガの繭はもちろん空き繭であるが、本種の卵が付着していることも多い。また繭殻のなかには、寄生バチのヒメバチ類の幼虫が潜んでいることも稀にある。繭のなかで、ウスタビガの幼虫を喰い尽くして成長した寄生バチ幼虫が、そのまま冬越ししているわけである。

 今日は、一本のイロハカエデの木で、ウスタビガの繭が7個ついているのを見つけた。4、5個の繭が一本の木で見つかることは稀にあるが、7個は初めて。しかし、地方によってはヤマカマスツリーとでも呼べる、もっと多数の繭が集中して付いた木もあるらしい。もしも写真になるほどなら是非、訪れてみたいが、、、、。

(E-500  35ミリマクロ+1.4倍テレコン)


『「昆虫ある記」武蔵野編の終焉にあたりーその4』

 平凡社の月刊誌「アニマ」は、昆虫写真の発表の場でもあった。

 18年前のある日のこと、私は海野和男さんの写真事務所を初めて訪れた。ちょうど30歳になったころだが、私はまだ昆虫写真だけで食べていける状況ではなく、展示関係の仕事でイラストを描いたり、展示パネル用の写真集めをしたりしていた。その仕事の関係で、海野さんの昆虫写真をお借りすることになった。

 仕事で海野さんの事務所を訪れたわけだが、用件が一段落したところで、私は自己紹介をさせていただいた。「どんな写真、撮ってるの?」という海野さんの質問に、待ってましたとばかりにアリスアブのことなどをお話したと思う。
 そんな折り、ちょうど事務所には平凡社アニマの副編集長さん(後、編集長)がいらしていた。海野さんが「全然、売れない写真ばかり撮っている変な人です」と私をその方に紹介してくれた。そのことがきっかけで、私は初めて「アニマ」誌上に写真を載せる機会を得たのであった。
 
 私が昆虫写真家として歩み出すまでの助走はきわめてゆっくりで、長く続いた。私が20歳代なかごろから始めた撮影の主力テーマは、それまで誰もやっていない昆虫の生態であり、そういう写真は出版業界では売れないのであった。世の中で知名度が低い昆虫を写真にしても、そんな写真が商業誌に採用される機会はほとんどない。しかしながら、あきらかに売れるはずの写真撮影は二の次にして、私は自分のテーマを自分なりにしっかり主張できるまでの礎を築こうとしていたのであった。私はそうやってもがいているうちに、実は自分が昆虫のことをあまりにも知らなさ過ぎることを再確認できたのでもあった。

 今思えば若かったからこそできたかなあ、とも思えるが、売れないとわかっている写真を撮り続けることを、ときには投げ出しそうになったこともあった。会社勤めで生計を支えてくれている嫁さんに申し訳ないという重圧感もあって、いつまでもこんなことを続けてどうなるのか?趣味でやるべきことではないか?そういう迷いがなかったわけではない。
 私の場合は、こうした長いトンネルのような時期をいかにやり過ごすか、それなりの気の持ち方の工夫が必要であった。

 昆虫写真家としては青山潤三さん、今森光彦さん、海野和男さん、小川宏さん、栗林慧さん、松香宏隆さん、山口 進さん、(五十音順)などなど、すでに活躍されている大先輩方がいらっしゃるなかで、自分という存在をどこまで世間に対してアピールできるのか、それを真剣に考える必要があった。
 ここに挙げた写真家の方々は、それぞれにいかにも個性豊かであり、その個性がしっかり写真の作風に表れている。ならば、新開の個性とはなにか?
 もしも18年前に海野さんの事務所を訪れなければ、私の昆虫写真家への出発への助走はもっと長引いたのかもしれない。人との出会いがいかに大事なものであるかを知った大きな出来事であったと思う。
 昆虫写真家としての自分とは何か?そういう問いかけが始まったのはそのころであり、18年間経た今でも、日々そのことを考え続けている。
 新開 孝

モズのペリット吐き出し 2007/01/28
 人里の農耕地で生活しているモズは、もっとも身近な野鳥と言えるだろう。

 モズは「小さな猛禽」とも呼ばれ、他の鳥や野ネズミ、モグラなども捕食する。しかし、普段の餌としては昆虫やクモ類などがもっとも多い。

 モズはときおり不消化物を一塊にして、これを吐き出す。節足動物のキチン質やほ乳類の骨など、鳥類の強靭な消化力をもってしても消化しきれないものを排出するわけである。
 一日のうち、どのくらいの頻度でこれを行なうのか詳しくは把握できていないが、その「吐き出し行動」を写真撮影するには、一羽のモズにぴったり張り付いている必要がある。

(Nikon F3 ニッコール400ミリ/PKR) 

 『「昆虫ある記」武蔵野編の終焉にあたりーその3』

 さて、今日の写真は15年前の1992年2月、愛媛県松山市の実家近くで撮影したもの。このころは、モズの撮影のため、頻繁に帰省していた。なにしろ松山はモズの生息密度がきわめて高く、実家のすぐ脇の河川敷で自由に撮影できたからでもある。
 結婚はしていたが当時はまだ子供もいなかったので、度々の長期遠征も可能であった。
 
 このころ使用していたカメラはNikonのF3とFM2などが主力であり、昆虫接写で若干OLYMPUSのマクロシステムを取り入れていたが、Canonはまったく使っていなかった。写真ではわかりずらいかもしれないが、実はペリット吐き出しの写真にはフィルム傷が多い。
 この傷はカメラのフィルム巻き上げ時に生じたもので、原因は「フィルムの巻き上げトルクの低下」ということであった。メーカー側の説明では、そういうカメラの不調はきわめて珍しいということであったが、私の所有していたNikonのカメラ2台で生じてしまった。巻き上げトルクの低下が生じると、カメラ内部の巻き上げ室内の内壁を、フィルムの乳剤面が擦ってしまうのであり、このときに傷がつく。
 これはF3やFM2など、当時のNikonカメラのフィルム巻き上げ機構が順巻きではなく逆巻きで、乳剤面を表側にしていたことも災いしたのであった。
 すぐさまカメラを修理をして、この問題は一応は解決したのであるが、このトラブルに気付くまでに、モズの求愛給餌の瞬間など、非常にシャッターチャンスの少ないカットの多くに傷が発生し、現像後のフィルムチェックで受けたショックはあまりにも大きかった。
 そして、このトラブルをきっかけに、私は主力機材を、NikonからCanonに移行する決意をしたのであった。もっともそのころの昆虫接写のメイン機材はPENTAX645になっており、35ミリ判の機材は、ほとんど野鳥撮影と超広角撮影にあてられていた。 

 (写真中)の吐き出し瞬間のカットは、平凡社の月刊アニマ、1992年11月号「VIVID」にも掲載された(写真下)。
 すでに休刊(実質は廃刊)になって久しい「アニマ」は、私が昆虫写真家への道を歩む上では無くてはならない、一種の登竜門として貴重な存在でもあった。
 写真が売れる売れないはともかく、「アニマ」誌上で自分の作品を発表できることは、動物写真界に一人のカメラマンとして認められるかどうか、その写真の腕前を評価してもらう大事な場所であったのだ。 

 昆虫写真を公表できる誌面というものが、こうして十数年前まではいくつかあったのだが、「アニマ」の休刊を皮切りに次々と出版界から消滅してしまい、今日に至っている。
 
 さてさて、「昆虫写真家」という肩書きがしばしば陽炎のごとく、あやうい存在となってしまうということを前に書いた。で、その理由の一つに考えられることは、海外の写真家業界の事情によるのであろう。
 つまり、欧米を中心とした写真家の業界では、「昆虫写真家」という肩書きが、おそらく通用せず、存在し得ないのかもしれない。昆虫を専門に撮影するカメラマンというより、向こうでは動物カメラマンの一つの稼業としてしか捉えられておらず、なおかつ昆虫専門では職業として成立しない、というのが世界的な常識なのであろう、と思われる。
 つまり、国際的な全世界的な活動を視野に入れれば、「昆虫写真家」などと名乗っていてはまったく通用しないのであろうと推測する。「昆虫写真家」という職業名は、日本という国内でのみ唯一通用する肩書きなのかもしれない。

 ーその4、につづく。



 新開 孝

ゴンズイノフクレアブラムシ、ふたたび 2007/01/27
 昨日、紹介したゴンズイノフクレアブラムシの、夏の姿が今日の写真である。
 撮影したのは一昨年の夏のことで、場所は熊本県の阿蘇山である。

 つまりゴンズイノフクレアブラムシの夏寄生植物についた姿であり、花は高原に群れて咲くユウスゲである。

 アブラムシは成虫と幼虫が入り混じっており、ここに写っているメスは皆、胎生雌であることがわかる。

 アブラムシの甘露を求めてクロオオアリが頻繁に訪れている。

 アブラムシ類は、季節によって寄生植物を換えたり、単性世代から両性世代へと変化したりと、けっこう複雑な生活を営んでいる。
 とかく害虫扱いばかり受けるのがアブラムシであるが、その生態を掘り下げていけば、なかなか奥の深い世界がある。新開 孝

クロスジホソサジヨコバイ 2007/01/26(その1)
 体長4ミリ前後のこの小さな虫は、冬の雑木林で見つかる。

 林内のアオキやヤツデ、ツバキなど、常緑樹の葉をめくっていけば、個体数も少なくない。都心の公園などでも見つかるようだ。

 3年前に本種の羽化シーンを撮影したのは12月末頃だったと思うが、晩秋から初冬にかけては、幼虫の姿も多い。

 しかしながら、本種の生活史についてはよくわかっていないようだ。成虫の交尾とか産卵行動なども、私は観察したことがない。成虫や終令幼虫の出現時期から、おそらく年一回の発生ではないだろうか?
 生態解明にはまず、早春から春にかけての彼らの動きに注目すべきであろうが、その頃は他の昆虫たちに目がいってしまいがちである。

 本種の体の色紋様には個体差があって、赤い帯模様を欠いた黒帯型ともいえるタイプの成虫も見かける。

(E-500  35ミリマクロ+1.4倍テレコン(写真はトリミングしています))

 新開 孝

黒豆とアブラムシ 2007/01/26(その2)
 ゴンズイという木は、枝や冬芽の特徴がはっきりしているので覚え易い。

 白くロウ物質を纏ったゴンズイノフクレアブラムシもゴンズイの枝上ではよく目立つ(写真上、中)。
 このアブラムシの夏の寄生植物は、ユリ科のノカンゾウやヤブカンゾウなどで、これまたよく目につく。草原の綺麗な花に惹かれて近付いてみたものの、この白い粉をふいたようなアブラムシの大群に驚かれた方も多いのではないかと思う。

 ノカンゾウなどを育成した、ワスレグサ属Hemerocallisの園芸品種は「ヘメロカリス」と呼ばれて、花壇や道路沿いなどで広く栽培されており、これらにもゴンズイノフクレアブラムシが無数について、害虫として問題視されることもあるようだ。

 今日はアブラムシがついていた同じ木で、越冬卵も多数見つかった。アブラムシが卵を産むのは、晩秋のころに出現する両性世代の卵性雌である。
 写真のメスたちは、幼虫を産み落とす胎生雌と思われるが、卵性雌たちはすでに死滅したのであろうか?
 あるいは黒豆のような卵は、別種のアブラムシが産みつけたものであろうか?

(E-500  35ミリマクロ+1.4倍テレコン) 新開 孝
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