| | | | 昨夜は、海野和男さん、藤丸篤夫さん、湊和雄さんたちと都内で飲んだ。 私が来月には宮崎に移転するということで、ちょうど沖縄から東京へ来ていた湊さんの計らいで壮行会を催してくれたのである。
たいへん有り難いことであり、なおかつこうして数少ない昆虫写真家が集まり顔を会わせる機会というのも滅多に無い貴重なひとときであった。
(EOSキッスデジタルN EF15ミリ魚眼)
『「昆虫ある記」武蔵野編の終焉にあたりーその8』
高校生のころの私はカメラと無縁であったので、自然観察の記録を残すにはスケッチをするしかなかった(写真中のスケッチは神社のナツフジで見つけたコミスジ幼虫)。 しかし、日々の発見はあまりにも数多く、いちいちスケッチで描くのはもどかしかった。やはりカメラがどうしても欲しかったのである。 ところで当時は(30年前頃)、今のようにインターネットで気軽に様々な情報を入手できるわけでもなく、またチョウに詳しい方が身近にいたわけでもなく、ローカルなフィールド情報などがなかなか手に入りにくかった。 それでどうしたかというと、無料で入館できる県立博物館をよく利用した。展示されている標本箱を覗き込み、標本に付いているラベルのデータを一生懸命に読むのである。黄ばんだ古いデータのラベルの場合は、すでにその産地の環境が激変してしまいあまり参考にはならなかったが、新しい年月のラベルが付いているのを発見すると、興奮しながらメモをとるのであった。メモの数が多くなってくると、今度の日曜日にはさっそくそのデータにあった産地へ行ってみよう、と算段を練るわけである。 また、高校1年の冬の修学旅行では伊豆、東京都内、日光などを巡ったのであるが、私の一番のお目当ては、神田の書店街に行く事であった。 たしか書泉グランデだったと思うが、『新しい昆虫採集案内U、西日本採集地案内編』内田老鶴圃新社(ろうかくほ)1971年刊を見つけ、さっそく購入した。 本書を読めば、どこそこへどういう時期に行けば、どういうチョウや昆虫を採集できるか、見えるか、という情報を手に入れることができた。
(採集地案内などというと、自然保護団体や生きもの愛護団体などから猛烈な攻撃を受けそうであるが、昆虫は、採集してくわしく調べるという段階無くしては、何も見えて来ない。その行為は学者だけの力では到底及ばず、昆虫学が成り立つためには全国にいるアマチュアの標本収集の成果も欠かせない。また知の楽しみには、採集を通して昆虫に触れ、体のすみずみまで理解するという作業も含まれる。昆虫は小さいので、標本にせずとも手に取ってみなければ、種名の確認もできないし、体のつくりも理解できない。網を振ることを神経質にやたらと取り締まるのも考えものだ。写真に撮って、あとから名前調べをしようというのも、まったく無駄ではないが、昆虫の種類は多過ぎて、正確な同定が不可能なことがほとんどである)
さて、『新しい昆虫採集案内U、西日本採集地案内編』を開くと大扉には、日光浴するオオルリシジミ♂のカラー写真が載っている。撮影者は海野和男さんで、撮影データは信濃追分、1971年6月13日とある。 チョウの生態写真をこんな風に自分も撮ってみたい、と当時はずいぶん羨ましく思ったものだ。ところが『新しい昆虫採集案内U、西日本採集地案内編』の巻頭には34頁を割いて、ちゃんと昆虫写真入門の記事が載せられており(岸田功氏著)、修学旅行のバスの移動時や、帰りのフェリー(徳島行き)のなかで、貪るように読み耽ったのは言うまでもない。 まだカメラを持ってはいなかったが、いづれ購入できたときには、いつでも迷う事無くカメラを操作できるようにと、撮影法については何度も何度も頭に叩き込んだ。 また、『新しい昆虫採集案内U、西日本採集地案内編』の各頁には、赤線があちこちに引かれており、当時はたいへん興奮しながら、勉強そっちのけで毎日読み耽っていたことが想い出される。 今朝、久しぶりに本書を開いてみれば、「宮崎周辺」という頁にはことさら熱心に赤線が引かれてあることに気付いた。 結局、私は学生時代のあいだに宮崎を訪れることは一度もなかったのであるが、採集地案内の文章や地図を繰り返し読み、眺めては、宮崎を訪れる日に焦がれていたようだ。 (高校時代、そして大学を通じて、私は遠征することはほとんどなく、もっぱら自転車で行ける範囲、あるいはバスで日帰りできる「皿ヶ嶺」(実家のすぐ南にお皿を伏せたような山容が見える。ベニモンカラスシジミが初めて発見されて一躍有名にもなった、標高1270メートルの山)などのフィールドを巡る日々を過ごしていた。) なんとそれから30年も経った今、ようやく宮崎の地を訪れ、そしてあれよあれよと言う間に、移住を決意した。 どうやら宮崎指向は高校生のころからすでに芽生えており、それがいつの間にか忘れ去っては、ふと想い出し、ということを繰り返してきたように思う。
愛媛大学の昆虫学教室に入り、4年間の学生生活を過ごすうちに、とりわけ足田輝一さんの著書や写真などから影響を受け、武蔵野の雑木林や自然に憧れるようになった。 大学を卒業後も就職先は決まらず、半年ほどは県立博物館などでバイトをしていたころ、ふとしたきっかけで、私は急遽、東京の出版社「学研」の学研映画という部署で演出助手という仕事につくことになった。そのことが私の人生で一つの大きな転機になったのは言うまでもない。
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