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講演会『虫をみつめて』を終えて 2008/10/04(その2)
 宮崎に来て、ほんとうに良かったなあ、と思う瞬間はこれまでにもたくさんあった。その反対に、後悔することはこれまで一つも無い(ほんとに)。

 たしかに、うちの近辺ではオオムラサキはいない。オオミドリシジミもいない。平地性ゼフもほぼいない。その部分を注目すれば、仕事上、困ることもある。寂しい。しかし、それでもやはり後悔することはない。
 
 講演を終えて会場の片付けを終えたのは10時。それから宮崎神宮の傍の居酒屋でささやかな交流会となった。ぼくとあと女性4人のメンバー。一応、ぼくが最年長のようだ。でも、話ははずんだ。まるで友だち同士の飲み会のよう。なんでだろう?えらく盛り上がる。酒はもちろん芋焼酎だ。

 12時を過ぎて店を出る。深夜の神宮内を歩いてみた。ぼくとあと女性2人。久しぶりにマツムシの「チンチロリン」を聞く。宮崎の県庁所在地にある街中にも関わらず、延々と暗闇が続く。これは凄い。そして静かだ。虫の鳴き声のみ。

 写真は、講演会場の入り口の飾り付け。撮影/八木真紀子さん。
 主催者のスタッフの方々には、ほんとうに感謝!です。
新開 孝

丸刈り昆虫写真家とは 2008/10/04(その1)
 昨日(10/3)は宮崎市内の『メディキット県民文化センター』で、「虫をみつめて」と題してぼくの講演会が開催された。開場は午後7時だったが、300名収容のホールはほぼ満席となった。今回の講演会の主催は、宮崎市の「大宮小学校 読み聞かせサークルひまわり」。スタッフのお母さん方達はとても熱心だ。

 宮崎に来てから、講演を行なうのはこれで3回目。しかし、昨夜は大型液晶プロジェクターを使って、写真を披露しながらゆっくりお話ができた。時間は1時間半の予定だったが、ついついノッてしまい15分超過してしまった。

 ともかく、講演しながら、ぼくはたいへん楽しかった。できれば、毎月くらいこんな場があってもいいなあ、と思うほど。これは本作りとは別次元のことだ。活字ではなくまさに、活弁士なのだ!!それもなんと、昆虫活弁士!(+丸刈り)

 講演を終えてから、演壇に子供達が駆け寄ってきてくれ、みんなと握手。こんな経験も初めて。宮崎の子どもたちは、なんだか熱いなあ、と感激した。
写真撮影/八木真紀子さん

 新開 孝

クリは寝かせてから、味わうべし 2008/10/02(その1)
 先週、うちの隣のクリ畑の持主の方から収穫したばかりのクリをたくさんいただいた。そのクリはゆがいたり、赤飯に入れて炊いたりして、秋の味覚を堪能したばかり。どうやらクリもサツマイモなどと同じように、冷暗所に少し置いておくと旨味が増すようだ。

 28日の子供の小学校運動会は生憎の雨だったが、なんとか午前中だけ開催することができた。グランドが泥んこなので、生徒はみんなはだしで競技に臨んだ。はだしで走るというのも子供たちにとっては滅多に無い体験。お昼前には雨脚も強くなってきたが、みんなは運動会をとても楽しんでいたようだ。
 結局、昼食は自宅に帰ってとることになり、そこで閉会となった。雨のこともあって、運動会のスケジュールは大幅に変更した。ぼくの住んでいる地区の郷土芸能「俵踊り」も、子供の競技を優先ということで中止となった。
 俵踊りはぼくもメンバーの一員となっており、まだほとんど様にならないが、運動会を目前にして稽古だけは参加していた。嫁さんのほうは伴奏で三味線をひくのだが、こちらはなんとかまともにやっている。
 傍目で見ている限り簡単そうに思える「俵踊り」だが、いざ参加してみるとけっこう難しい。来年の5月にはお祭りでお披露目があるようだが、それまでに上達できるのかどうか、自信は無い。何せ、高校生のときに踊ったフォークダンス以来、踊りというものにはまったく無縁だったのだから。

 昨日、庭で仕事をしていたらクリ畑に人影が見えた。これはお礼をしなければと、愛媛の「ちりめん」を携えて下の畑に降りてみた。するとまたもや拾ったばかりの大きなクリをいただいてしまうことになった(写真)。


 明日は、宮崎市内のメディキット県民文化センターでぼくの講演がある。対象は宮崎市内全域の小学生だが、開演が午後7時ということもあって、父兄同伴となる。それもあって参加者の方はかなりの人数で、300名収容のホールに空き席はわずかのようだ。新開 孝

ぷりぷり 2008/10/02(その2)
 庭のキンカンにはまだナガサキアゲハのでっかい終令幼虫が3匹いて、このところ毎日、様子を見ている。最初、4匹いたのだけれど、一匹は下痢をして枝にダラリと逆さの格好のまま死んでしまった。ヤママユ幼虫の大量飼育下でよく発生する、「軟化病」の症状によく似ている。

 ナガサキアゲハの幼虫は、怒らせると長く反応してくれる。クロアゲハもそうだ。しかしアゲハの幼虫などは個体差が大きく、役者になるような幼虫に行き当たらないと、今日のような写真はなかなか撮りづらい。

 大きく丸く膨らませた胸部に眼状紋。そしてニョロッと突き出したオレンジ色の臭角。
 これはいかにもヘビの頭部に似せているように感じる。ともかく何となく気色悪いイメージがある。幼虫はこの格好をして、さらにヘビの疑似頭部を左右に揺するという演技までする。この様子を怖がる天敵とは、おそらく小鳥やサルあたりだろうか。犬やネコも少しは怯むかもしれない。うちの飼い犬のチョロは、ヘビをけっこう恐れる。しかし、幼虫のこの怒りポーズが、どういった天敵にどこまで有効であろうか?

 3年前、ぼくはハシブトガラスが大きなアゲハの幼虫を食べている現場を見た事がある。カラスにとっては平気なのかもしれない。アゲハではないけど、オオスカシバのでっかい幼虫を、スズメがさんざん苦労しながらつついては引っぱり回していたこともあった。そのオオスカシバ幼虫は無紋タイプだったが、紋様のあるタイプだったらスズメも恐れただろうか?
 

 
新開 孝

タイワンツバメシジミ、ふたたび 2008/10/02(その3)
 いろいろ慌ただしい中、歩いて2分のシバハギ群落を見に行ってみた。

 そろそろタイワンツバメシジミの幼虫たちが成長している頃だ。シバハギの花はほとんど終わっており(写真上)、豆果が大きく目立ってきた。
 豆果を日光に透かしてみれば、中の種子がよく見える(写真中)。

 さらに豆果を丁寧に見ていくと、表面に小さな穴が開いたものがある。タイワンツバメシジミ幼虫の食痕だろう。これも日光に透かしてみると、小さな小さな幼虫のシルエットが浮かび上がる。幼虫は豆果をいくつか糸で綴り、その隙間に隠れていた(写真下/画面左が頭部)。
 
 豆果に穴を穿ち、そこへ頭部だけ突っ込んで食事している幼虫もいた。幼虫は3匹採集し、飼育してみることにした。蛹を撮影しておきたいからだ。

新開 孝

ショウキズイセン(鐘馗水仙) 2008/09/28(その1)
 宮崎に来てから、ヒガンバナの白花が多く目につく、ということは以前にも書いた。そしてどうやら、敢て白花の球根を植えたと思われる農家もあって、白いヒガンバナの帯が敷地を取り囲んでいる光景も珍しくない。

 さて、うちのヒガンバナはほとんどが赤花だが、白花も数株混じる。今年はその白花のすぐ隣に黄色いヒガンバナが花を咲かせた。黄色いヒガンバナをショウキズイセンと呼ぶらしいが、黄色花を見るのは初めてのこと。
 黄色花は赤花が咲き終わった頃に蕾みを開き、花びらも広くそして縁が波打っているのが特徴。ときおりモンキアゲハが吸蜜に来ていた。

 この夏にぼくがクヌギの根元を掘り下げたのであるが、そのとき掘り出した盛り土からショウキズイセンは顔を出している。昨年は土深くに眠っていたショウキズイセンの球根が、今年になって浅い場所へと掘り出され目覚めたのだろうか?


 
新開 孝

芋虫 2008/09/28(その2)
 ヒガンバナにやって来るナガサキアゲハは、どれも翅が擦れたり破れている個体が目立つ。その代わりと言うべきか、庭のキンカンの木には、ナガサキアゲハのでっぷりと太った終令幼虫が4匹もついており、若い幼虫もいくつか見つかる。大きな終令幼虫の体長は6センチを超え、芋虫を苦手とする方ならとてつもない悲鳴を上げるやも知れない。

 じつはそういうぼくも、中学1年生のある時期までは、アゲハの幼虫を不気味に感じていたことを告白しておこう。というか、アゲハ(ナミアゲハ)の幼虫の実物を見たのが、中学1年生の頃であり、それまでは図鑑の写真でしか知らなかった。
その初めて出会った不気味な芋虫に触ることもできず、そばに近寄ることさえ恐怖だったのである。

 ぼくは、小学4年生から高校1年の1学期まで、松山市の和泉町という街中から少しはずれた場所に住んでいた。そしてなんと、道一本隔てて高い高い塀が延々と続く、刑務所のすぐお隣だったのである。毎朝、塀の中から「起床〜!!」という大声が聞こえて一日が始まるのであった。
 塀の中には豚舎もあったらしく「ブフィ〜!!キウィ〜!」と鳴き声がしたり、「イッチニ、サンシ、ニイニイサンシ!」というかけ声と共に、駆け足の足音がザッザッザと響いて来ることもあった。「止まれ〜!右向け右〜!」なんてかけ声を聞いていると、塀の中では中学校や小学校と同じことやっているんだなあ、とぼんやり思っていたが、比較的刑の軽い服役者の方々は、ときおり塀の外での作業もしていた。そういう方々はだいたい一組7〜8名位の人数で、鍬を使って草刈りをしていた。付き添いの看守はいつも一人しかいなかったように思うが、鍬という武器を所持し、そして人数からしても、看守を叩きのめして逃走するくらいはわけないだろうに、どうしてそうしないのか、などと不思議に思っていた。

 その刑務所もぼくが中学3年生のときに移転が決まり取り壊され、のちに県立病院が新しく建設された。刑務所の取り壊し作業にはずいぶんと時間が掛かったのも、やはり分厚く頑丈で、長大な塀の取り壊し作業があったからだろうと思う。そして、じつは刑務所の取り壊しは、ぼくにとってはずいぶんと残念でならなかった。
 残念だった理由の一つとは、ぼくのアゲハ幼虫との最初の出会いが、その刑務所の塀沿いに植えられていたカラタチの植え込みだったからである。

 カラタチの植え込みは延々と塀の下に続き、その傍らをぼくは毎日、登下校していた。今思えば、そこはまさにアゲハの楽園のような場所であっただろう。しかしながら、アゲハ幼虫の存在に気付き、そしてこの芋虫に興味を抱いたのは中学1年生になってからで、それまでの約3年間の小学生時代にはまったく気付きもしなかったのであった。つまり、ぼくは少なくとも小学校に通っているころには、昆虫少年とは無縁だったのである。とくに5年生、6年生にかけては、ハヤカワSF文庫、創元SF文庫という世界に嵌っており、どちらかと言えば屋内こもりタイプなのであった。

 中学に上がってもSF文庫はそのまま引きづりながら、北杜夫の『どくとるマンボウ昆虫記』との出会い、そしてヘルマン・ヘッセの『少年の日の想い出』などをきっかけとして、急激に昆虫への興味を抱き始めたのであった。そして、夏休みの理科の宿題に、ぼくはアゲハの飼育観察を思いついたのであった。観察材料は家のそばにいくらでもいることを、そのときに初めて気付き、あらためて大きなアゲハの幼虫をまじまじと見つめてみた。
 そのときは、アゲハ幼虫が不気味で手で触れることも躊躇していたが、ともかく割り箸で芋虫を捕獲し、飼育してみたのである。成長の様子などをスケッチしていくうちに、ぼくはいつのまにか芋虫を手のひらに乗せることも平気になっていった。
 当時の心境の変化など、細かいところまでは思い出せないが、中学3年間のなかで、塀の傍に暮らしたことと、アゲハの幼虫たちを育んでいたカラタチの生け垣の光景などが強く重なって、今でも心の奥底に留まっている。

 刑務所が立ち退き、新しい病院の建設が進んでいるころ、ぼくの一家は、田舎へと引っ越した。高校1年生の2学期だった。田んぼに周囲を取り囲まれた、父親の実家近くの新居で新しい生活が始まったのであった。新居の横のミカン畑ではアゲハの幼虫が再び、ぼくの心を捉えた。

 33年前の記憶を辿りながら、ぼくは今、キンカンの前に立っている。

 キンカンは小さな木で、ここにナガサキアゲハの幼虫が何匹もつけば、たちまちぼくの頭のように丸坊主にされてしまいそうだ。しかし、そうはならない。幼虫たちは天敵や病気によって、適度に少しづつ数を減らしていく。いや、もしかしたらそのほとんどは成虫になることなく、命を落としているようだ。ほんとうに運のいいわずかな奴だけが、蛹の殻を破って飛び立っていけるようだ。

 気ぜわしく産卵していくナガサキアゲハの母蝶は、そのことをよく知っているのかもしれない。そそくさと産卵を済ませると、次の産卵場所へと力強く素早く移動していく。

 芋虫への恐怖感。それは一旦乗り越えてしまえば、いかに努力しようとも、もうその恐怖感、嫌悪感を思い起こすことができない。変な気分だが、ちょっとそのことが寂しかったりする。


新開 孝

2分で行ける、タイワンツバメシジミの発生地 2008/09/27
 今月14日に紹介したタイワンツバメシジミ。
その頃は、タイワンツバメシジミの発生ピーク真っ最中だった。発生場所はうちから車で5分程度。その場所の行政区はお隣町となり、わが三股町ではなかった。

 さて、5日ほど前のこと。犬の散歩コースの途中でシバハギの小さな群落を見つけた。農道に沿った崖に、約10メートルの細長い帯状にシバハギの株が点々とあり、驚いてしまった。これまでにも何度となくこの場所は歩いているからだ。うちを出て2分とかからない、まさに足下のような場所だ。

 もっともシバハギにこれまで気付かなかった理由ははっきりしている。その場所の崖は草やぶにびっしりと覆われており、地面に這うシバハギは死角となっていたからだ。ところが3週間程前に草刈り作業が行なわれた。そしてタイミング良く開花時期に通りかかったというわけだ。すぐさま花穂を見てみれば、白い小さなタイワンツバメシジミの卵も付いていた。

 そして、翅がもうボロボロになったタイワンツバメシジミのメス成虫2匹も確認できた。このわずか10メートル幅の狭いシバハギ群落に、まるで寄り添うようにして佇んでいたタイワンツバメシジミ。もう少し時間を遡れば、オスも飛び交っていたのだろうか?いやそれとも、どこか近くの発生地から、メスだけが流れて来て、孤島のような新天地にたまたま遭遇した、というのだろうか?

 いづれにせよ、タイワンツバメシジミという蝶は、シバハギに食草を限定しているがために、その分布範囲もきわめて制約されてしまう。シバハギというマメ科植物もまた、そうそうは見当たらない。しかしながら、三股町の中に限っても、まだぼくが知らないシバハギ群落地がどこかにはあるはずだ。

新開 孝

タテハモドキの秋型 2008/09/21(その1)
 この夏、タテハモドキはたいへん多かった。
 去年と比べても、その数は十数倍以上と思われる。秋の気配が濃くなるにつれ、夏型タテハモドキの翅もボロボロに破れた個体が目立つようになってきた。
 そろそろ、秋型が出るころだろうと思っていたら、今朝になって初めて秋型を2匹見つけた(写真上)。そして夕方には5匹見た(写真中)。

 一昨日、稲穂に止まる夏型の個体を撮影した。これが秋型であれば良かったのだが、そううまくはいかないものだ(写真下)。
新開 孝

何か変? 2008/09/21(その2)
 夕方、犬の散歩で谷津田の農道を歩いていた。

 午後5時過ぎころだが、日射しこそないものの辺りはまだまだ明るい。今日は正午ころに突発的に激しい風雨があったが、そのあとはときおり雨がぱらつく程度だった。

 さて、歩いているうちに、アスファルトの道路の真ん中にショウリョウバッタの姿を見つけた。すかさず飼い犬チョロが飛びかからないように、足でロープを踏んでおいた。
 なんとショウリョウバッタのメスは、アスファルトに腹端を突き立て、産卵しようとしていたのであった。産卵時刻としてもかなり早いほうだし、なんでこのような場所を選んだのだろう、と不思議に思えた。

 腹端部をよく見れば、アスファルトがわずかにえぐれて、そこに土がたまっている。土といってもほんのわずかな量だが。
 ショウリョウバッタの産卵場所は、固い地面が選ばれることが多いように思われる。そのことが今回のような誤産卵行動を誘発したのであろうか?よくはわからない。
 以前、トノサマバッタがアスファルトの割れ目で産卵しているのを撮影したことがある。そのときは、割れ目から明らかに土の層が見えていたので、おそらく産卵はうまくいったのかもしれない。

 アスファルトに産卵しようとしていたメスを、しばらく観察してからうちに持ち帰ることにした。産卵衝動が高まっているうちに、うちの庭に移してみればどうなるだろうか?新開 孝

台風13号が来た 2008/09/20(その1)
今回も、ここ一週間を振り返っての更新。


 ようやく台風が来た。あまり歓迎はできないが、台風が来ないと夏が終わらない。18日の午後からは雨脚も強くなってきて、小学校も時間を繰り上げて早々と下校になった。雨戸を閉め、倒れそうな植え込みを紐で固定したりと、強風に備えて庭をあちこち点検しておいた。
 夕方ころ一旦は雨もおさまり、天空が橙色に染まった。写真上は庭から西の方向にレンズを向けている。大きなシルエットの木はクヌギ。

 昨年のこと、このクヌギは、下の畑の農家の方から、切らせてもらうと宣言されていた。落ち葉や日陰が農作にとっては不都合だからという理由。農家の方が言うには、ぼくが引っ越してくる前の地主と、切る約束をしているとも言うことだった。約束はともかく、農作に弊害あり、となれば、ぼくもこれには従うしかあるまい、と覚悟していた。
 だが、このクヌギは真夏の厳しい日射しを遮り、台風の強風の前に立ちはだかる楯にもなってくれることが、この一年間住んでみてよくわかった。
 この大きなクヌギが風にもまれてユサユサと揺れている姿は、まるでわが家の守護神のごとく感じられる。その力強い姿、まさに御神木とも言えようクヌギ様を、根元から切るとは何事ぞ!と騒ぎ始めたのは嫁さんのほうだった。
 
 農家の方とお話をしたのはぼくの方で、ぼくは切り倒すことをあっさりと承諾してしまった。農作に弊害ありと言われれば、返す言葉がなかった。これは困ったことになった、と思っていたら、しばらくして、ある日。下の畑で作業している方が別の方に入れ替わった。畑の持主は農業従事者ではないので、これまで近所の農家の方に畑作りを委託していた。ところが、地主の方はどうやらクヌギを切りたがっていた農家の人とソリが合なくなった、ということだった。
 あらたに下の畑に通い始めた農家の方は、クヌギについては一言も触れない。黙々とサツマイモを植え、そして今年は里芋を植えた。農薬も使うので、そのときは前もって知らせてくれる。農作をすることで、いろいろ迷惑をかけるね、という気遣いが感じられる。その農家の方とは顔を合わせる度に立ち話をするなかで、ぼくは、敢てクヌギ様のことを話題にしたことはない。去年のサツマイモもそうだったが、今年も穫れたての里芋をどっさりといただいた。

 わが家には隣接する人家がない。
 お隣は西の畑とクリ林、そして東側に大工作業場。南側はうちの林が続き、その先は谷津田となる。谷津田からは、朝や夕べに散歩する人の会話が遠くからかすかに聞こえ、農耕機具のうなるエンジン音もかすむ。北側は道路とそれを挟んで梅林。滅多に人はやってこないが、大工作業場の持主は土建業の方で、ほとんど作業場は使われていない。梅林は春の収穫期にのみ持主の方がやってくるが、これも一年に一回きり。クリ林もときたま下刈りに来られるくらいで、まず人の姿を見ることがない。

 ま、都会や街中に生じるような近所間のトラブルなど、うちにはありようもないわけだ。清瀬にいた頃のマンションでは、毎朝のごとく「南無妙法蓮華経」を唱えながら木魚を叩く音が絶えなかったし、上階のベランダからは携帯のやりとりの大声が響いてきたものだ。ベランダで携帯通話、というその理由は、マンションの室内では電波状態がたいへん悪かったからで、電話が掛かってくる度に、ぼくもあわててベランダに飛び出していた。
 木魚のリズム音は、ぼくの耳にはけっこう暴力的な響きとなっていた。原稿を書いているときなど、気が散って仕方が無い。そのたびに信仰心とは何ぞや?などといろいろ考えながら、静かになるまでコーヒーでもすすったりして時間を過ごす。

 、、、、なんてこともあったなあ、などと今の境遇と一年数ヶ月前の境遇とのあまりの違いをあらためて感じながら、ぼくはお隣のクリ林のおばさんから、穫れたてのクリを先日いただき、それをゆがいて頬張るのであった。
 クリはいろいろ料理法もあるけれど、ゆがいてから、苦労して皮むきながら食べるのが、秋の味わい方としては一番ではないか、そう思ったりする。

 
新開 孝

台風一過とミヤマカラスアゲハ 2008/09/20(その2)
 18日の夕方から深夜にかけて、宮崎県の南部海上を台風13号は東へと抜けて行った。

 いろいろと台風に備えてみたものの、コスモスとヒガンバナが倒れてしまったくらいで、風もそれほど吹き荒れたようでもない。おかげで夜はどっぷりと熟睡できた。一番心配していた、3メートルもの背丈に育ったケナフは、脚立を柱にしてビニールひもでくくっておいたのだが、これも無事だった。

 19日の朝、縁側に出てみると台風一過の晴天。その青空のなかにくっきりと霧島山が浮き上がって見えた。空気がとても澄んでいるのだろう、霧島山の高千穂岳の山容が綺麗だった。
 
 さて、過去10年以上、ぼくは医者要らず、だった。
 病院にはよく行ったが、それはいつも子供を連れてのこと。つまり小児科。いや、ほんとに子供と病院にはよく行った。子供をもつご家庭はどこでもそうだろうけれど。
 しかし、19日の午前中、10数年ぶりにぼくは自らの診察を受けに病院へと赴いた。2ヶ月前に、町の健康診断をこれも10数年ぶりに受けて、その結果、というか予想通りに、重症高血圧との忠告を受けたからである。ま、それとアルコールの摂取量オーバー。これはこの夏からけっこう自重して、まずは晩酌を止めている。
 あれほど何処の焼酎が旨いのかんの、徹夜の撮影待機でもグラスから手を離せないなどと、まさに酒好きで通してきた自分だが、ちょっとアルコールに関してはおとなしくなりたい、と思った。
 もっとも、酒を断つ、というほど深刻に思い詰めているわけではない。おいしい料理に、酒は必須。週に2日ほどは飲酒を楽しむし、会食の場で酒を断ったりはしない。
 今年でぼくも50歳。降圧剤を服用するはめになって、この年令を実感するとは少し残念だ。しかし、高血圧を抱えたままでは、いつなんどき大病に至るやもしれない。
 そのような事情もあって、先月のこと、自ら自分の頭を丸刈りにした。丸刈りは生まれて初めてのこと。最初は丸刈りにするつもりはなかったが、スキカルで刈っていくうちに、気持ちが変わった。失敗という言い訳も成り立つが、ほんとうは気持ちの転換にしたかったのだろう。こっれほど明解な気分転換もあるまいなあ、と思った。

 昆虫写真家として、死に瀕するもっとも危険な事態というのは何だろう?

 それは国内だと、まず交通事故死を筆頭に、スズメバチに刺されてのショック死、マムシに首から上部を咬まれて心臓発作での死亡、あるいはマダニに刺されてのツツガムシ病、高い樹上、崖からの転落死、、、、くらいかな、と思っていた。野外のキノコはまず絶対食べないので、キノコ毒で死ぬことはない。海外ともなるとまったく予想もつかないが、当分、ぼくは海外には出ない。
 日々、そのような死に至る事態をときどき想像してみるほど気が弱いくせに、飲酒習慣についてはずいぶんと、ふてぶてしい態度だったように思う。
 自らの体内というもっとも近い場所に、死亡につながる危険因子が潜んでいたわけで、これは自分の努力で少しは何とかコントロールせねば。
 つらつらと、そのようなことを考えながら、台風一過でほとんどなぎ倒された庭のヒガンバナを眺めていると、フワリ、フワリと黒いアゲハが数匹やって来た。
 いつものモンキアゲハかナガサキか、あるいはカラスかな、と思っていると、目の前の花に来ている1匹は、ミヤマカラスアゲハだ(写真下)。しかも、翅はどこも擦れておらずピカピカに輝いている。

 わが家にミヤマカラスアゲハが飛来したのを見るのは、これが初めて。そう遠くない山に産地があるとはいえ、こうして飛来する頻度はきわめて低いと思う。できればうちの林のカラスザンショウに産卵してくれんかな。キハダはない。ないが、来てくれるなら、植えてもいい。

 「昆虫が私を幸せにしてくれます」、などと先日テレビのなかで格好つけて喋ったりしたが、高血圧症に悩むよりか、キハダの種子をどこで入手しようかと悩む時間のほうが今は優先するのであった。

新開 孝

親に似ず 2008/09/20(その3)
 

 家屋の南側にあたる庭の中央部は、刈り込みの回数を年に数回程度に抑えている。
 
 したがって、その中央部分は、他の草地とは植物の顔ぶれも違った、いわば離れ孤島となっている。その場所で先日、少し時間を割いてみた。腰をおろしてじっくり眺めていると、やがて普段はけっして気付きようもない、小さな虫たちの日常が営まれているのが見えてくる。

 そのなかでも、タデの花に見え隠れしていた、ハリカメムシの幼虫たち。おそらく、2令と3令の若い幼虫たちばかりだろう。それが、ほんとによく目を凝らしていないと、すぐに姿をフッと見失ってしまうほどに存在があやふやなのだ。体が小さいこともあるが、主にその理由は、体色が前後に分断されたツートンカラーであることによる、と思う。

 彼らの姿をしっかりと説明する写真を撮るには、背景とか光の具合とかを選ぶ必要がある。相手もじっとはしていないので、態勢が変わるたびに、こちらも寝転がったり、膝まづいたり、と苦しい姿勢転換を頻繁に行なう。まるでヨガの修行のよう、とか言えば聞こえは良いが、知らない人がたまたま通り掛かれば、気が狂ったか、としか思われないだろう。

 ハリカメムシの親は地味な褐色の小さなカメムシで、イネの害虫ともなり(斑点米)、農家にとっては憎き奴らだろうと思う。ま、イネの害虫ともなるが、普段はイネ科やタデ科の多くの草を餌としている。このカメムシの子らの姿は、まったく親には似ていない。どこをどうねじ曲げても、親の姿につながっていかない。
それが脱皮を繰り返すたびに変化していくが、最後の終令になってもまだ、親の姿を想像することは不可能に近い。

新開 孝

瑠璃色 2008/09/14
 昨日のタイワンツバメシジミの記事に追加しておこう。

 タイワンツバメシジミのオスの翅表は瑠璃色に輝く。その姿を撮影しようと思えば、午前中がいい。一昨日の朝はそういうわけで、近所のススキ原へと出直してみた。
 案の定、朝日が射し込むススキ原のあちこちで日光浴するタイワンツバメシジミの姿があった。写真のオス(写真上)はすでに鱗粉が少し落ちているが、オスでもまだ新鮮な個体が見られた。

 彼らが飛翔するのはススキ原の中の低い位置だが、その飛翔活動空域の中にカメラを置いて撮影してみた(写真中)。地面にカメラを置いてあるので、ススキの根際に生えるナンバンギセルをも見上げるような画角になる。タイワンツバメシジミたちは、おもにこのような空間を上下左右とジグザクに飛翔する。オスはメスや、吸蜜のための花を探し求め、メスは主に産卵のためのシバハギを求めて舞う。
 タイワンツバメシジミは地面ギリギリまで潜り込んでいくことも多く、静止するにもススキの葉が錯綜する場所を多く選ぶので、彼らの姿を撮影するのは意外と手こずる。使用するレンズは180〜200ミリクラスのマクロレンズがあれば容易に撮影できる。

 昨日も書いたように、ススキ原の背丈は全体に低い。ここでは定期的に草刈り作業が入るからだ(写真下)。もともとは照葉樹林だったところを切り開き、そこへサクラや様々な植栽樹を植えたのだろうと思う。したがってここの草原は、人為的介入の結果、維持されている。
 シバハギは関東以南の西日本に広く分布しているようだが、近年はかなり減少したと言われている。タイワンツバメシジミもその結果、あちこちで数を減らしているようだ。唯一、例外の地が屋久島のようだ。屋久島にはシバハギがたくさん生えているという。ぼくは9月のこの時期にも屋久島を訪れたことがあるが、シバハギには気付かなかった。

 近所のタイワンツバメシジミ生息地も、もしも人が草刈り管理などを放棄し、そのまま放置されてしまったらどうなるだろうか?
 
新開 孝
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